らかつてゐた。そうしてある春の日に師匠から送られた西洋すみれの花の匂ひが、みのるのその思ひ出に甘くまつはつて懷かしい思ひの血の鳴りを響かしてゐた。
あのなつかしい師匠に離れてからもう何年になるだらうかと思つてみのるは數へて見た。師匠の手をはなれてからもう五年になつた。そうして師匠の慈愛に甘へて一途にその人を慕ひ騷いだ時からはもう八年の月日が經つてゐた。その頃のみのるの生命は、あの師匠の世態に研ぎ澄まされたやうな鋭い光りを含んだ小さい眼のうちにすつかりと包まれてゐたのであつた。その師匠の手をはなれてはみのるの心は何方へも向けどころのないものと思ひ込んでゐた。そうして船で毎日の樣に向島まで通つたみのるは行くにも歸るにも渡しの棧橋に立つて、滑かな川水の上に一と滴の思ひの血潮を落し/\した。
それほどに慕ひ仰いだ師匠の心に背向いて了はねばならない時がみのるの上にも來たのであつた。其れはみのるが實際に生きなければならないと云ふほんとうの生活の上に、その眼が知らず/\開けて來た時であつた。毎日師匠の書齋にはいつて書物の古い樟腦の匂ひを嗅ぎながら、いゝ氣になつて遊んでばかりゐられない時が來たからであつた。そうして師匠の慈愛が、自分のほんとうに生きやうとする心の活《はた》らきを一時でも痲痺《しび》らしてゐた事にあさましい呪ひを持つやうな時さへ來た。この師匠の手をはなれなければ自分の前には新らしい途が開けないものゝ樣に思つて、みのるはこの慈愛の深い師匠の傍を長い間離れたけれども、その後のみのるの手に、目覺めたと云ふ證徴《しるし》を持つた樣な新らしい仕事は一とつとして出來上つてはゐなかつた。みのるはその頃の自分を圍《かこ》ふやうな師匠の慈愛を思ひ出して、いたづらな涙にその胸を潤ほす日が多かつた。そうして唯一人の人へ對する堅い信念に繋がれて傍目《わきめ》もふらなかつた幼ない昔を、世間といふものから常に打ち叩かれてゐる樣なこの頃のみのるの心に戀ひしく思ひ出さない日と云つてはないくらゐであつた。
今夜は殊にその思ひが深かつた。みのるは今日の、夫人の棺前の讀經を聞きながら泣き崩れる樣にして右の手でその顏を掩ふてゐた師匠の姿を、いつまでも思つてゐた。義男はその晩通夜に行つて歸つてこなかつた。
「その紋付は何うしたの。」
一と足先きに葬式から歸つてゐた義男は、みのるが歸つてくるのを待つて
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