けると、小石川の友達のところへでも行つてくるより仕方がないと思つたみのるは好い口實を作る事を考へながら出て行つた。
 友達の家の塀際には咲き揃つた櫻が何本か並んで家の富裕を誇るやうに往來の方に枝を垂れてゐた。みのるは其家《そこ》の主人の應接|室《ま》で久し振りな顏を友達と合はせた。みのるには自分が借りるのだといふ事が何うしても云へなかつた。一人身ならば自分が借りると云へるのだけれども、一家を持つてゐるものが主人の面目を考へても、そんな貧しい事は云はれるものではないと云ふ考へがみのるの頭の中を行つたり來たりしてゐた。
 利口な友達は人の惡るい臆測は女の嗜《たしな》みではないといふ樣なおとなしい笑顏を作つて、みのるの手から他の知人へ貸すといふのを眞に受けたらしい樣子を示しながら、一と襲ねの紋付を出して來た。
「お葬式は黒でなくちやいけないけれども、生憎私には黒がないから。」
 友達の出した紋付は薄い小豆色だつた。裾には小蝶の繍《ぬ》ひがあつた。

 その日は雨が降つてゐた。みのるは白木蓮の花を持つて、吾妻橋の渡船塲《わたしば》から船に乘つた。船が岸を離れた時のゆるやかな心の辷《すべ》りの感じと一所にみのるの胸には六七年前の追懷の影が射してゐた。船の中からみのるは思ひ出の多い堤を見た。櫻時分の雨の土堤にはなくてならない背景の一とつの樣に、茶屋の葭簀《よしず》が濕《ぬ》れしよぼれた淋しい姿を曝してゐた。そうして梳《くしけず》つたやうな細い雨の足が土堤から川水の上を平面にさつと掠《かす》つてゐた。みのるは又、船が迂曲《うね》りを打つてはひた/\と走つてゆく川水の上に眞つ直ぐに眼を落した。自分の青春はこの川水のさゞなみに、何時ともなくぢり/\と浸し消されてしまつた樣な悲しみがそこに映つてゐた。深い思ひを抱いてうつら/\と逍遙《さまよ》つた若いみのるの顏の上に雫を散らした堤《どて》の櫻の花は、今もあゝして咲いてゐた。それがみのるには又誰かの若い思ひを欺かうとする無殘な微笑の影のやうに思はれてそこにも恨みがあつた。
 言問《こととひ》から上にあがると、昔の涙の名殘りのやうに、櫻の雫がみのるの傘の上に音を立てゝ振りこぼれた。土堤の中途でみのると同じ行先きへ落合はうとする舊い知人の二三人に出逢ひながら、師匠の門を潜《くゞ》つた時は、義男と約束した時間よりもおくれてゐた。
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