迚《と》ても追ひ付く事が出來なかつた。
 漸くみのるが家内《うち》にはいつて行つた時は、もう義男は小さい長火鉢の前に横になつてゐた。みのるは買つて來た小さいパンを袋から出して、土間の中まで追つて來たメエイに捩《ちぎ》つて投げてやりながら、態《わざ》といつまでも明りのついた義男の方を向かずにゐた。
「おい。」
 義男は鋭い聲でみのるを呼んだ。
「なに。」
 然う云つてからみのるは小犬を撫でたり、
「一人ぼつちで淋しかつたかい。」
と話をしたりして其所から入つてこなかつた。義男はいきなり立つてくると足を上げてみのるの膝の上に頭を擡《もた》せてゐた犬の横腹を蹴つた。
「外へ出してしまへ。」
 義男はさも命令の力を顏の筋肉にでも集めてるやうに、「出せ」と云ふ意味を示すやうな腮《あご》の突き出しかたをすると、その儘其所に突つ立つてゐた。小犬は蹴られた義男の足の下まで直ぐ這ひ寄つてきて、そうして足袋の先きに齒を當てながらじやれ[#「じやれ」に傍点]付かうとした。
「あつちへお出で。」
 みのるは小犬の頸輪《くびわ》を掴むと、自分の手許まで一度引寄せてから、雨の降つてる格子の外へ抛り付ける樣に引つ張りだした。そうして戸を締めて内へ入つてくると舊《もと》のやうに火鉢の前に寢轉んでゐた義男の前に坐つて、涙と一所に突き上つてくる呼吸を唇を堅く結んで押へてゐる樣な表情をしてその顏を仰向かしてゐた。
「別れてしまはうぢやないか。」
 義男は然う云つて仰《あを》になつた。
 放縱な血を盛つた重いこの女の身體が、この先き何十年と云ふ長い間を自分の脆弱な腕の先きに纒繞《まつは》つて暮らすのかと思ふと、義男はたまらなかつた。結婚してからの一年近くのたど/\しい生活の中を女の眞實をもつた優しい言葉に彩られた事は一度もなかつたと思つた。振返つて見ると、その貧しい生活の中心には、いつもみだらな血で印を刻した女のだらけた笑ひ顏ばかりが色を鮮明《あざやか》にしてゐた。そうして柔かい肉をもつた女の身體がいつも自分の眼の前にある匂ひを含んでのそ/\してゐた。
「僕見たいなものにくつつい[#「くつつい」に傍点]てゐたつて、君は何うする事も出來やしないよ。僕には女房を養つてゆくだけの力はない。自分だけを養ふ力もないんだから。」
「知つてるわ。」
 みのるは、はつきりと斯う云つた。唇を開くとその眼から涙があふれた。

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