などは明治以来諸先輩の努力によって殆どすべて翻訳され尽している。範疇《はんちゅう》、当為、止揚、妥当などというむつかしい言葉も今日ではもう日用語になりきってしまった。哲学上の言葉は概念的抽象的であるからある意味ではかえって翻訳とその通用とが容易であるとも考えられる。すべて言語の内容が客観的知的である場合には翻訳が成立しやすく、主観的情的である場合には翻訳がうまくいかないことは事実である。
 生活と密接な具体的関係にある言葉は雰囲気の情調を満喫していて他国語への翻訳が困難であるには相違ないが、それも程度の問題であって、外来語の国訳へ向って出来得る限りの努力が払われなくてはならない。知識階級が全面的に誠意ある努力をこの点に払うならば必ず社会民衆が納得して使用するような新鮮味ある訳語が出来てくると信ずる。
 日本人は一日も早く西洋崇拝を根柢から断絶すべきである。殊《こと》に文筆の上で国民指導の位置にある学者と文士と新聞雑誌記者とが民族意識に深く目覚めて、国語の純化に努力し、外来語の排撃に奮闘し、社会の趣味を高きへ導くことを心掛けなければならない。



底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩
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