験させる機会を与えやすい。「たまたま逢ふに切れよとは、仏姿《ほとけすがた》にあり乍《なが》ら、お前は鬼か清心様《せいしんさま》」という歎きは十六夜《いざよい》ひとりの歎きではないであろう。魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、悩みに悩みを嘗《な》めて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。異性に対する淳朴《じゅんぼく》な信頼を失ってさっぱりと諦《あきら》むる心は決して無代価で生れたものではない。「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。その裏面には「情《つれ》ないは唯《ただ》うつり気な、どうでも男は悪性者《あくしょうもの》」という煩悩《ぼんのう》の体験と、「糸より細き縁ぢやもの、つい切れ易く綻《ほころ》びて」という万法の運命とを蔵している。そうしてその上で「人の心は飛鳥川《あすかがわ》、変るは勤めのならひぢやもの」という懐疑的な帰趨《きすう》と、「わしらがやうな勤めの身で、可愛《かわい》と思ふ人もなし、思うて呉《く》れるお客もまた、広い世界にないものぢやわいな」という厭世的な結論とを掲げているのである。「いき」を若い芸者に見るよりはむしろ年増《としま》の芸者に見出すことの多いのはおそらくこの理由によるものであろう{1}。要するに、「いき」は「浮かみもやらぬ、流れのうき身」という「苦界《くがい》」にその起原をもっている。そうして「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛《せちがら》い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍《てんたんむげ》の心である。「野暮は揉《も》まれて粋となる」というのはこの謂《いい》にほかならない。婀娜《あだ》っぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯《しんし》な熱い涙のほのかな痕跡《こんせき》を見詰めたときに、はじめて「いき」の真相を把握《はあく》し得たのである。「いき」の「諦め」は爛熟頽廃《らんじゅくた「はい》の生んだ気分であるかもしれない。またその蔵する体験と批判的知見とは、個人的に獲得したものであるよりは社会的に継承したものである場合が多いかもしれない。それはいずれであってもよい。ともかくも「いき」のうちには運命に対する「諦め」と、「諦め」に基づく恬淡とが否《いな》み得ない事実性を示している。そうしてまた、流転《るてん》、無常を差別相の形式と見、空無《くうむ》、涅槃《ねはん》を平等相の原理とする仏教の世界観、悪縁にむかって諦めを説き、運命に対して静観を教える宗教的人生観が背景をなして、「いき」のうちのこの契機を強調しかつ純化していることは疑いない。
以上を概括すれば、「いき」の構造は「媚態」と「意気地」と「諦め」との三契機を示している。そうして、第一の「媚態」はその基調を構成し、第二の「意気地」と第三の「諦め」の二つはその民族的、歴史的色彩を規定している。この第二および第三の徴表は、第一の徴表たる「媚態」と一見|相容《あいい》れないようであるが、はたして真に相容れないであろうか。さきに述べたように、媚態の原本的存在規定は二元的可能性にある。しかるに第二の徴表たる「意気地」は理想主義の齎《もたら》した心の強味で、媚態の二元的可能性に一層の緊張と一層の持久力とを呈供《ていきょう》し、可能性を可能性として終始せしめようとする。すなわち「意気地」は媚態の存在性を強調し、その光沢を増し、その角度を鋭くする。媚態の二元的可能性を「意気地」によって限定することは、畢竟《ひっきょう》、自由の擁護を高唱するにほかならない。第三の徴表たる「諦め」も決して媚態と相容れないものではない。媚態はその仮想的目的を達せざる点において、自己に忠実なるものである。それ故に、媚態が目的に対して「諦め」を有することは不合理でないのみならず、かえって媚態そのものの原本的存在性を開示せしむることである。媚態と「諦め」との結合は、自由への帰依《きえ》が運命によって強要され、可能性の措定《そてい》が必然性によって規定されたことを意味している。すなわち、そこには否定による肯定が見られる。要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。それ故に、「いき」は媚態の「粋《すい》」{2}である。「いき」は安価なる現実の提立《ていりつ》を無視し、実生活に大胆なる括弧《かっこ》を施し、超然として中和の空気を吸いながら、無目的なまた無関心な自律的遊戯をしている。一言にしていえば、媚態のための媚態である。恋の真剣と妄執とは、その現実性とその非可能性によって「いき」の存在に悖《もと》る。「いき」は恋の束縛に超越した自由なる浮気心でなければならぬ。「月の漏《も》るより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草《ことぐさ》」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙sたいじ》が明示されている。「粋と云《い》はれて浮いた同士《どし》」が「つひ岡惚《おかぼれ》の浮気から」いつしか恬淡洒脱《てんたんしゃだつ》の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増《いやま》して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託《かこ》たねばならない。「蓮《はす》の浮気は一寸《ちょいと》惚《ぼ》れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋《ひよくもん》、離れぬ中《なか》」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈《かまど》にまさる」のは「粋な小梅《こうめ》の名にも似ぬ」のである。スタンダアルのいわゆる amour−passion の陶酔はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒《さたん》する者は 〔amour−gou^t〕の淡い空気のうちで蕨《わらび》を摘んで生きる解脱《げだつ》に達していなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るような「影に至るまでも一切が薔薇色[#「薔薇色」に傍点]の絵{3}」ではない。「いき」の色彩はおそらく「遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴《しらちゃおばかま》」の白茶色[#「白茶色」に傍点]であろう。
要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣《ほしいまま》にし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘《うそ》と知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於《お》ける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴《ヨーロッパ》の女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚《こび》を呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して[#「垢抜して」に傍点](諦)、張のある[#「張のある」に傍点](意気地)、色っぽさ[#「色っぽさ」に傍点](媚態)」ということができないであろうか。
{1}『春色辰巳園《しゅんしょくたつみのその》』巻之七に「さぞ意気な年増《としま》になるだらうと思ふと、今ツから楽しみだわ」という言葉がある。また『春色梅暦《しゅんしょくうめごよみ》』巻之二に「素顔の意気な中年増《ちゅうどしま》」ということもある。また同書巻之一に「意気な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶《なお》くはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々」の言葉があるが、すなわち、ここでは「いき」と形容されている女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
{2}我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「粋《すい》」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ないと思う。式亭三馬の『浮世風呂《うきよぶろ》』第二編巻之上で、染色に関して、江戸の女と上方《かみがた》の女との間に次の問答がある。江戸女「薄紫《うすむらさき》といふやうなあんばいで意気[#「意気」に傍点]だねえ」上方女「いつかう粋[#「粋」に傍点]ぢや。こちや江戸紫《えどむらさき》なら大好《だいすき》/\」。すなわち、「いき」と「粋」とはこの場合全然同意義である。染色の問答に続いて、三馬はこの二人の女に江戸語と上方語との巧みな使い別けをさせている。のみならず「すつぽん」と「まる」、「から」と「さかい」などのような、江戸語と上方語との相違について口論をさせている。「いき」と「粋」との相違は、同一内容に対する江戸語と上方語との相違であるらしい。したがって、両語の発達を時代的に規定することが出来るかもしれない(『元禄文学辞典』『近松語彙《ちかまつごい》』参照)。もっとも単に土地や時代の相違のみならず、意識現象には好んで「粋《すい》」の語を用い、客観的表現には主として「いき」の語を使うように考えられる場合もある。例えば『春色梅暦』巻之七に出ている流行唄《はやりうた》に「気だてが粋[#「粋」に傍点]で、なりふりまでも意気[#「意気」に傍点]で」とある。しかし、また同書巻之九に「意気[#「意気」に傍点]の情《なさけ》の源」とあるように、意識現象に「いき」の語を用いる場合も多いし、『春色辰巳園』巻之三に「姿も粋[#「粋」に傍点]な米八《よねはち》」といっているように、客観的表現に「粋」の語を使う場合も少なくない。要するに、「いき」と「粋」とは意味内容を同じくするものと見て差支ないであろう。また、たとえ一は特に意識現象に、他は専ら客観的表現に用いられると仮定しても、客観的表現とは意識現象の客観化にほかならず、したがって両者は結局その根柢においては同一意味内容をもっていることになる。
{3}Stendhal, De l'amour, livre I, chapitre I.
{4}Kellermann, Ein Spaziergang in Japan, 1924, S. 256.
[#改ページ]
三「いき」の外延的構造
前節において、我々は「いき」の包含する徴表を内包的に弁別して、「いき」の意味を判明ならしめたつもりである。我々はここに、「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰《めいせき》ならしめねばならない。
「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手《はで》」、「渋味」などである。これらはその成立上の存在規定に遡《さかのぼ》って区分の原理を索《もと》める場合に、おのずから二群に分かれる。「上品」や「派手」が存在様態として成立する公共圏は、「いき」や「渋味」が存在様態として成立する公共圏とは性質を異《こと》にしている。そうしてこの二つの公共圏のうち、「上品」および「派手」の属するものは人性的一般存在[#「人性的一般存在」に傍点]であり、「いき」および「渋味」の属するものは異性的特殊存在[#「異性的特殊存在」に傍点]であると断定してもおそらく誤りではなかろう。
これらの意味は大概みなその反対意味をもっている。「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。ただ、「渋味」だけは判然たる対立者をもっていない。普通には「渋味」と「派手」とを対立させて考えるが、「派手」は相手として「地味」
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