リなる位地と機会とを提供する以外の実際的価値をもち得ないであろう。例えば、日本の文化に対して無知な或る外国人に我々が「いき」の存在の何たるかを説明する場合に、我々は「いき」の概念的分析によって、彼を一定の位置に置く。それを機会として彼は彼自身の「内官」によって「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在会得に対して概念的分析は、この意味においては、単に「機会原因」よりほかのものではあり得ない。しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩《きく》とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否《いな》。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸《かか》っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。「いき」の構造の理解もこの意味において意義を
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