心をももっていないことはいうまでもない。
 「いき」な姿としては湯上り姿[#「湯上り姿」に傍点]もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣《ゆかた》を無造作《むぞうさ》に着ているところに、媚態とその形相因とが表現を完《まっと》うしている。「いつも立寄る湯帰りの、姿も粋な」とは『春色辰巳園《しゅんしょくたつみのその》』の米八《よねはち》だけに限ったことではない。「垢抜《あかぬけ》」した湯上り姿は浮世絵にも多い画面である。春信《はるのぶ》も湯上り姿を描いた。それのみならず、既に紅絵《べにえ》時代においてさえ奥村政信《おくむらまさのぶ》や鳥居清満《とりいきよみつ》などによって画かれていることを思えば、いかに特殊の価値をもっているかがわかる。歌麿《うたまろ》も『婦女相学十躰《ふじょそうがくじったい》』の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかった。しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。
 表情の支持者たる基体についていえば、姿が細っそり[#「姿が細っそり」に傍点]して柳腰であることが、「いき」の客観的表現の
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