、な甘ったるい甘味のみが「甘口」な人間の特徴として残るのである。国貞《くにさだ》の女が清長《きよなが》や歌麿《うたまろ》から生れたのはこういう径路《けいろ》を取っている。
以上において我々はほぼ「いき」の意味を他の主要なる類似意味と区別することができたと信ずる。また、これらの類似意味との比較によって、意味体験としての「いき」が、単に意味としての客観性を有するのみならず、趣味[#「趣味」に傍点]として価値判断の主体および客体となることが暗示されたと思う。その結果として我々は、「いき」を或る趣味体系の一員として他の成員との関係において会得《えとく》することができるのである。その関係はすなわち左のとおりである。
[#図が入るが省略。底本43ページ]
もとより、趣味はその場合その場合には何らかの主観的価値判断を伴っている。しかしその判断が客観的に明瞭に主張される場合と、主観内に止《とど》まって曖昧《あいまい》な形より取らない場合とがある。いま仮りに前者を価値的といい、後者を非価値的というのである。
なお、この関係は、左図のように、直六面体の形で表わすことができる。
[#図が入るが省
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