気心でなければならぬ。「月の漏《も》るより闇がよい」というのは恋に迷った暗がりの心である。「月がよいとの言草《ことぐさ》」がすなわち恋人にとっては腹の立つ「粋な心」である。「粋な浮世を恋ゆえに野暮にくらすも心から」というときも、恋の現実的必然性と、「いき」の超越的可能性との対峙sたいじ》が明示されている。「粋と云《い》はれて浮いた同士《どし》」が「つひ岡惚《おかぼれ》の浮気から」いつしか恬淡洒脱《てんたんしゃだつ》の心を失って行った場合には「またいとしさが弥増《いやま》して、深く鳴子の野暮らしい」ことを託《かこ》たねばならない。「蓮《はす》の浮気は一寸《ちょいと》惚《ぼ》れ」という時は未だ「いき」の領域にいた。「野暮な事ぢやが比翼紋《ひよくもん》、離れぬ中《なか》」となった時には既に「いき」の境地を遠く去っている。そうして「意気なお方につり合ぬ、野暮なやの字の屋敷者」という皮肉な嘲笑を甘んじて受けなければならぬ。およそ「胸の煙は瓦焼く竈《かまど》にまさる」のは「粋な小梅《こうめ》の名にも似ぬ」のである。スタンダアルのいわゆる amour−passion の陶酔はまさしく「いき」からの背離である。「いき」に左袒《さたん》する者は 〔amour−gou^t〕の淡い空気のうちで蕨《わらび》を摘んで生きる解脱《げだつ》に達していなければならぬ。しかしながら、「いき」はロココ時代に見るような「影に至るまでも一切が薔薇色[#「薔薇色」に傍点]の絵{3}」ではない。「いき」の色彩はおそらく「遠つ昔の伊達姿、白茶苧袴《しらちゃおばかま》」の白茶色[#「白茶色」に傍点]であろう。
 要するに「いき」とは、わが国の文化を特色附けている道徳的理想主義と宗教的非現実性との形相因によって、質料因たる媚態が自己の存在実現を完成したものであるということができる。したがって「いき」は無上の権威を恣《ほしいまま》にし、至大の魅力を振うのである。「粋な心についたらされて、嘘《うそ》と知りてもほんまに受けて」という言葉はその消息を簡明に語っている。ケレルマンがその著『日本に於《お》ける散歩』のうちで、日本の或る女について「欧羅巴《ヨーロッパ》の女がかつて到達しない愛嬌をもって彼女は媚《こび》を呈した{4}」といっているのは、おそらく「いき」の魅惑を感じたのであろう。我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜して[#「垢抜して」に傍点](諦)、張のある[#「張のある」に傍点](意気地)、色っぽさ[#「色っぽさ」に傍点](媚態)」ということができないであろうか。

 {1}『春色辰巳園《しゅんしょくたつみのその》』巻之七に「さぞ意気な年増《としま》になるだらうと思ふと、今ツから楽しみだわ」という言葉がある。また『春色梅暦《しゅんしょくうめごよみ》』巻之二に「素顔の意気な中年増《ちゅうどしま》」ということもある。また同書巻之一に「意気な美しいおかみさんが居ると言ひましたから、それぢやア違ツたかと思つて、猶《なお》くはしく聞いたれば、おまはんの年よりおかみさんの方が、年うへのやうだといひますし云々」の言葉があるが、すなわち、ここでは「いき」と形容されている女は、男よりも年上である。一般に「いき」は知見を含むもので、したがって「年の功」を前提としている。「いき」の所有者は、「垢のぬけたる苦労人」でなければならない。
 {2}我々が問題を見ている地平にあっては、「いき」と「粋《すい》」とを同一の意味内容を有するものと考えても差支ないと思う。式亭三馬の『浮世風呂《うきよぶろ》』第二編巻之上で、染色に関して、江戸の女と上方《かみがた》の女との間に次の問答がある。江戸女「薄紫《うすむらさき》といふやうなあんばいで意気[#「意気」に傍点]だねえ」上方女「いつかう粋[#「粋」に傍点]ぢや。こちや江戸紫《えどむらさき》なら大好《だいすき》/\」。すなわち、「いき」と「粋」とはこの場合全然同意義である。染色の問答に続いて、三馬はこの二人の女に江戸語と上方語との巧みな使い別けをさせている。のみならず「すつぽん」と「まる」、「から」と「さかい」などのような、江戸語と上方語との相違について口論をさせている。「いき」と「粋」との相違は、同一内容に対する江戸語と上方語との相違であるらしい。したがって、両語の発達を時代的に規定することが出来るかもしれない(『元禄文学辞典』『近松語彙《ちかまつごい》』参照)。もっとも単に土地や時代の相違のみならず、意識現象には好んで「粋《すい》」の語を用い、客観的表現には主として「いき」の語を使うように考えられる場合もある。例えば『春色梅暦』巻之七に出ている流行唄《はやり
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