I不安が不規則的な模様の形を取って、既に民族移住時代から見られ、更にゴシックおよびバロックの装飾にも顕著な形で現われている事実がある。建築においても体験と芸術形式との関係を否《いな》み得ない。ポール・ヴァレリーの『ユーパリノスあるいは建築家』のうちで、メガラ生れの建築家ユーパリノスは次のようにいっている。「ヘルメスのために私が建てた小さい神殿、直ぐそこの、あの神殿が私にとって何であるかを知ってはいまい。路ゆく者は優美な御堂を見るだけだ――わずかのものだ、四つの柱、きわめて単純な様式――だが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込めた。おお、甘い変身《メタモルフォーズ》よ。誰も知る人はないが、このきゃしゃな神殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女《おとめ》の数学的形像だ。この神殿は彼女独自の釣合を忠実に現わしているのだ{5}」。音楽においても浪漫《ロマン》派または表現派の名称をもって総括し得る傾向はすべて体験の形式的客観化を目標としている。既にマショオは恋人ペロンヌに向って「私のものはすべて貴女《あなた》の感情でできた」と告げている{6}。またショパンは「ヘ」短調司伴楽の第二楽章の美しいラルジェットがコンスタンチア・グラコウスカに対する自分の感情を旋律サしたのであることを自ら語っている{7}。体験の芸術的客観化は必ずしも意識的になされることを必要としない。芸術的衝動は無意識的に働く場合も多い。しかしかかる無意識的創造も体験の客観化にほかならない。すなわち個人的または社会的体験が、無意識的に、しかし自由に形成原理を選択して、自己表現を芸術として完了したのである。自然形式においても同様である。身振《みぶり》その他の自然形式はしばしば無意識のうちに創造される。いずれにしても、「いき」の客観的表現は意識現象としての「いき」に基礎附けて初めて真に理解されるものである。
 なお、客観的表現を出発点として「いき」の構造を闡明《せんめい》しようとする者のほとんど常に陥る欠点がある。すなわち、「いき」の抽象的、形相的理解に止《とどま》って、具体的、解釈的に「いき」の特異なる存在規定を把握するに至らないことである。例えば、「美感を与える対象」としての芸術品の考察に基づいて「粋の感」の説明が試みられる{8}。その結果として、「不快の混入」というごとき極《きわ》めて一般的、抽象的な性質より捉《とら》えられない。したがって「いき」は漠然《ばくぜん》たる 〔raffine'〕のごとき意味となり、一方に「いき」と渋味との区別を立て得ないのみならず、他方に「いき」のうちの民族的色彩が全然把握されない。そうして仮りにもし「いき」がかくのごとき漠然たる意味よりもっていないものとすれば、西洋の芸術のうちにも多くの「いき」を見出すことができるはずである。すなわち「いき」とは「西洋においても日本においても」「現代人の好む」何ものかに過ぎないことになる。しかしながら、例えばコンスタンタン・ギイやドガアやファン・ドンゲンの絵が果して「いき」の有するニュアンスを具有しているであろうか。また、サンサンス、マスネエ、ドゥビュッシイ、リヒアルド・スュトラウスなどの作品中の或る旋律を捉えて厳密なる意味において「いき」と名附け得るであろうか。これらはおそらく肯定的に答えることはできないであろう。既にいったように、この種の現象と「いき」との共通点を形式化的抽象によって見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採《と》ることはこの種の文化存在の把握に適した方法論的態度ではない。しかるに客観的表現を出発点として「いき」の闡明を計る者は多くみなかような形相的方法に陥るのである。要するに、「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づいて自然形式および芸術形式に現われたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていえば、「いき」の研究は民族的存在の解釈学[#「民族的存在の解釈学」に傍点]としてのみ成立し得るのである。
 民族的存在の解釈としての「いき」の研究は、「いき」の民族的特殊性を明らかにするに当って、たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ。客観的表現が「いき」そのものの複雑なる色彩を必ずしも完全に表わし得ないとすれば、「いき」の芸術形式と同一のものをたとえ西洋の芸術中に見出す場合があったとしても、それを直ちに体験としての「いき」の客観的表現と看做《みな》し、西洋文化のうちに「いき」の存在を推定することはできない。またその芸術形式によって我々が事実上「いき」
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