「る。そうして「いき」は正《まさ》にこの変位の或る度合に依存するものであって、変位が小に過ぐれば「上品」の感を生じ、大に過ぐれば「下品」の感を生ずる。たとえば、上行して盤渉より壱越を経て平調に至る旋律にあって、実際上の壱越は理論上の高さよりもやや低いのである。かつその変位の程度は長唄《ながうた》においてはさほど大でないが、清元《きよもと》および歌沢《うたざわ》においては四分の三全音にも及ぶことがあり、野卑な端唄《はうた》などにては一全音を越えることがある。また同じ長唄だけについていえば、物語体のところにはこの変位少なく、「いき」な箇所[#「箇所」は底本では「筒所」と誤記]には変位が大である。そうして変位があまり大に過ぐるときは下品の感を起させる。なおこの関係は、勝絶より黄鐘を経て盤渉に至るときの黄鐘にも、平調より双調を経て黄鐘に至るときの双調にも現われる。また平調より神仙を経て盤渉に至る旋律の下行運動にあっても、神仙の位置に同様の関係が見られる。
 リズムについていえば、伴奏器楽がリズムを明示し、唄《うた》はそれによってリズム性を保有するのであるが、わが国の音楽では多くの場合において唄のリズムと伴奏器楽のリズムとが一致せず、両者間に多少の変位が存在するのである。長唄において「せりふ」に三絃《さんげん》を附したところでは両者のリズムが一致している。その他でも両者のリズムの一致している場合には、多くは単調を感ぜしめる。「いき」な音曲においては変位は多く一リズムの四分の一に近い。
 以上は田辺氏の説であるが、要するに旋律上の「いき」は、音階の理想体の一元的|平衡《へいこう》を打破して、変位の形で二元性を措定《そてい》することに存する。二元性の措定によって緊張が生じ、そうしてその緊張が「いき」の質料因たる「色っぽさ」の表現となるのである。また、変位の程度が大に過ぎず四分の三全音くらいで自己に拘束《こうそく》を与えるところに「いき」の形相因が客観化されているのである。リズム上の「いき」も同様で、一方に唄と三絃との一元的平衡を破って二元性が措定され、他方にその変位が一定の度を越えないところに、「いき」の質料因と形相因とが客観的表現を取っているのである。
 なお楽曲の形にも「いき」が一定の条件を備えて現われているように思う。顕著に高い音をもって突如として始まって、下向的進行によっ
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