きじ》くらべや張競べ」というように、「いき」は媚態でありながらなお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。「鉢巻の江戸紫」に「粋《いき》なゆかり」を象徴する助六《すけろく》は「若い者、間近く寄つてしやつつらを拝み奉れ、やい」といって喧嘩を売る助六であった。「映らふ色やくれなゐの薄花桜」と歌われた三浦屋の揚巻《あげまき》も髭《ひげ》の意休《いきゅう》に対して「慮外ながら揚巻で御座んす。暗がりで見ても助六さんとお前、取違へてよいものか」という思い切った気概を示した。「色と意気地を立てぬいて、気立《きだて》が粋《すい》で」とはこの事である。かくして高尾《たかお》も小紫《こむらさき》も出た。「いき」のうちには溌剌《はつらつ》として武士道の理想が生き[#「生き」に傍点]ている。「武士は食わねど高楊枝《たかようじ》」の心が、やがて江戸者の「宵越《よいごし》の銭《ぜに》を持たぬ」誇りとなり、更にまた「蹴《け》ころ」「不見転《みずてん》」を卑《いや》しむ凛乎《りんこ》たる意気となったのである。「傾城《けいせい》は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし」とは廓《くるわ》の掟《おきて》であった。「金銀は卑しきものとて手にも触れず、仮初《かりそめ》にも物の直段《ねだん》を知らず、泣言《なきごと》を言はず、まことに公家大名《くげだいみょう》の息女《そくじょ》の如し」とは江戸の太夫《たゆう》の讃美であった。「五丁町《ごちょうまち》の辱《はじ》なり、吉原《よしわら》の名折れなり」という動機の下《もとtに、吉原の遊女は「野暮な大尽《だいじん》などは幾度もはねつけ」たのである。「とんと落ちなば名は立たん、どこの女郎衆《じょろしゅ》の下紐《したひも》を結ぶの神の下心」によって女郎は心中立《しんじゅうだて》をしたのである。理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色である。
「いき」の第三の徴表は「諦め[#「諦め」に傍点]」である。運命に対する知見に基づいて執着《しゅうじゃく》を離脱した無関心である。「いき」は垢抜《あかぬけ》がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒《しょうしゃ》たる心持でなくてはならぬ。この解脱《げだつ》は何によって生じたのであろうか。異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、恋の実現に関して幻滅の悩みを経
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