いことを悔いてやることだから、一萬千百圓の所へ九萬六千圓の木を植へる、後とが六十八萬圓の木を植へる、それを十年繼續して植へると云ふ斯う云ふ次第で、利根川も渡良瀬川以下大分荒れました、二十九年には東京府へ咄嵯に鑛毒水が這入つて向島の農商務大臣殿の屋敷迄鑛毒水が這入つた、斯う云ふので驚いて、さうして群馬、埼玉、茨城、栃木等の知事が集つて政府に河渫をすること、利根川を低くすること、水のコケの宜くなることを河身改良として、國會に要求して、政府から原案を出して貰つて國會議員も之を贊成して呉れと云ふ運動を群馬、埼玉、茨城、栃木の知事が盡力して、さうして國會を通過して東京府へ鑛毒水の這入らぬやうに土手を太くしたり、河を渫へ廣げたりする普請金が六百五十萬圓と云ふ、之は東京府へ鑛毒水が這入ると由々しき問題が起る、足尾銅山鑛毒田地が出來るから、それは大變だから豫め東京府へ鑛毒水が這入らぬが宜いと云ふので六百五十萬圓と云ふ金が出たのである、それは年々五十萬圓宛の金で銚子の口から河身改良をして居ります、栗橋と云ふ東北線を渡る處迄參るのが明治四十二年に彼處に達する、さうすると渡良瀬川の水のコケも宜くなり水害も少
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