る。一體此の土地の人民は腹を立てると云ふことを知らない人民で、經濟の頭と權利と云ふ頭が乏しくなつて居る。何となれば百姓でございますから當り前に田を作り、春耕し夏耘り暑い土用に田の草を取つて、漸く七八月の頃稻の穗が出る時分には洪水が出て、是が一時に水泡に歸するのである。是は鑛毒の無い前の話でございます。鑛毒も何も無くても、洪水が出て此一時に一年の勞を水泡に歸しますからして、自分の家の經濟の豫算が常に出來ない。例へば一町の田を作れば五十俵取れる六十俵取れる、斯ふ云ふ計算をすることが出來ないから豫算と云ふ頭が無い。權利と云ふ方に參りますと、人は勞をすれば報酬を受けるのが權利であるけれども、一年働いたものが水泡に歸し、是れ天災なりと言ふて棄てなければならない。是れが何年ともなく長く其處に住んで居る所からして、皆之を天災に歸して天災と諦めて居る。腹を立つと云ふことは他の郷里の人よりも少ないのでございます。此の骨を折つた方には酬ひが來ない。一方骨を折らぬ方から酬ひが來る。何であるかと申しますと、洪水の爲に稻が腐れてしまうから米は取れないけれども、其の代はり肥料が來る、魚が多く取れる。骨を折らぬ方から報酬が來て骨を折つた方が水泡になるから、頭がめつちやになつて權利も經濟も何も無い。權利と云ふことを知らざるに非ず、知つて居るが之を天なりとして棄てることが多い。又た經濟を知らざるに非ず、知つて居るけれども豫算と云ふ頭の乏しいのはどうも據ない、土地の風俗でありますので。其上に此鑛毒と云ふものゝ來ることを知らずに居つたのが十年――第一此の鑛毒と云ふものは、洪水の時に水の中に這入つて來るのでございますからして一寸分からない。分らないで、當年は稻の出來が惡るい、是は虫のせいであろう、氣候のせいであろう。――十年經つて作物が出來なくなつて、是は鑛毒と云ふものだそうだと云ふことが見付かつた時は、最早既に間に合はない。
 尚ほクド/\しい御話でございますけれども一つ申して置くことがある。洪水は恐るべきであるが肥料が來る魚が來る、或場合、鑛毒の無い前には洪水を歡迎した位である、即ち天災を歡迎すると云ふ場合があつた。洪水が來て米も取れないが魚も取れない、双方とも取れなくなつたのは鑛毒の爲である。鑛毒と云ふものを知らずに居る事が十年で、其間鑛毒が諦めの可い天災の中に這入つて歡迎を受ける。天災の中に鑛毒が混つて來るから、十年ばかりと云ふもの知らずに居つた是れが一つ。愈々是を知つて、さて問題が六ヶしい、化學衞生權利經濟國家政治社會――斯樣な色々なものを一通り心得なければ、此事に就て聲を立てることが出來ないと云ふ問題である。此被害地の人に取ては實に至難な問題であります。次に費用の出所であります。鑛毒を知つても、請願をするとか何をするとか云ふ運動費の出場が無い。町村の自治と云ふものがもそつと發達して居りますならば、是は無論町村會で議決してやるべきものと決まつて居りますが、悲しい哉此の沿岸の町村は他の町村に比べて幾らか智識が劣つて居るものと見へ、之を矢張被害民に押付ける。被害人は災難を受けた上に費用の出所が無いから涙を呑んで默つて居たので、今日では皆之を町村費で議決して出すやうになりましたけれども、其間どうすることも出來ずに居たのである。
 もう一つは政府と云ふものはどうであるか。先づ地方官の事から御話をします。――(此時吉本榮吉演壇に趣きて田中に私語す)――豫ねて前にも申上げて置きました通り、嘸ぞ御迷惑でございませうけれども、何卒當年の如く御休の多い年柄でございますから、幸に此の被害者を御救ひ下さる御思召がございますならば、今暫く御清聽を願ひたう存じます。――偖て地方の役所では、或は天然痘が流行つて來たと云ふて大騷ぎをする、是は大騷ぎをやるのが宜い。又た桑木の植方其他蠶種に至ては微粒子の取調種々なる事に力を盡すに似合はず、此の鑛毒と云ふものに至ては知らざる如くである。十萬人の毒食する者があつても、是に一片の令達も出ない。唯だ明治十四年に早くも渡良瀬川の魚を食つてはならぬと云ふことを、當時の栃木縣令藤川爲親と云ふ人が令達を出したことがあつた。十四年に藤川縣令が未だ正直なる時代に斯樣な令達を出したのに、今日は、昨年の洪水で十萬以上の人が毒殺されるのに、何一つ鑛毒と云ふことを言つてない。此方から忠告しても爲ない。文字に書いてはならない、書くと氣が付くから差止める。斯樣な慘酷なる事で、栃木群馬二縣の人々は鑛毒と云ふことを言つてはならぬと云ふ位に、郡吏や縣官から非道な取扱を受けて居るのでございます。然らば何も彼も構はず打捨ておくかと云ふに、一方郡吏が東西に奔走して色々干渉手段を廻らして途方も無い惡事ばかり働いて居るのでございます。それで人民に聲を立てることが出來まするか。斯樣に私が
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