見れば六疊一間に一間の戸棚只一つ、箪笥長持はもとより有るべき家ならねど、見し長火鉢のかげも無く、今戸燒の四角なるを同じ形《なり》の箱に入れて、これがそも/\此家の道具らしき物、聞けば米櫃も無きよし、さりとは悲しき成ゆき、師走の空に芝居みる人も有るをとお峰はまづ涙ぐまれて、まづ/\風の寒きに寢てお出なされませ、と堅燒に似し薄蒲團を伯父の肩に着せて、さぞさぞ澤山《たんと》の御苦勞なさりましたろ、伯母樣も何處やら痩せが見えまする、心配のあまり煩ふて下さりますな、夫でも日増しに快《よ》い方で御座んすか、手紙で樣子は聞けど見ねば氣にかゝりて、今日のお暇を待ちに待つて漸との事、何家などは何うでも宜ござります、伯父樣御全快にならば表店《おもて》に出るも譯なき事なれば、一日も早く快く成つて下され、伯父樣に何ぞと存じたれど、道は遠し心は急く、車夫《くるまや》の足が何時より遲いやうに思はれて、御好物の飴屋が軒も見はぐりました、此金《これ》は少々なれど私が小遣の殘り、麹町の御親類よりお客の有し時、その御隱居さま寸白《すばく》のお起りなされてお苦しみの有しに、夜を徹してお腰をもみたれば、前垂でも買へとて下された、それや、これや、お家は堅けれど他處《よそ》よりのお方が贔屓になされて、伯父さま喜んで下され、勤めにくゝも御座んせぬ、此巾着も半襟もみな頂き物、襟は質素《ぢみ》なれば伯母さま懸けて下され、巾着は少し形《なり》を換へて三之助がお辨當の袋に丁度宜いやら、夫れでも學校へは行きますか、お清書が有らば姉にも見せてと夫れから夫れへ言ふ事長し。七歳のとしに父親得意場の藏普請に、足場を昇りて中ぬりの泥鏝《こて》を持ちながら、下なる奴に物いひつけんと振向く途端、暦に黒ぼしの佛滅とでも言ふ日で有しか、年來馴れたる足場をあやまりて、落たるも落たるも下は敷石に模樣がへの處ありて、掘りおこして積みたてたる切角に頭腦したゝか打ちつけたれば甲斐なし、哀れ四十二の前厄と人々後に恐ろしがりぬ、母は安兵衞が同胞《きやうだい》なれば此處に引取られて、これも二年の後はやり風俄かに重く成りて亡せたれば、後は安兵衞夫婦を親として、十八の今日まで恩はいふに及ばず、姉さんと呼ばるれば三之助は弟のやうに可愛く、此處へ此處へと呼んで背を撫で顏を`いて、さぞ父さんが病氣で淋しく愁らかろ、お正月も直きに來れば姉が何ぞ買つて上げますぞえ、母
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