く手振りも哀れなる夜なり。
 實家は上野の新坂下《しんざかした》、駿河臺への路なれば茂れる森の木の下暗《したやみ》佗しけれど、今宵は月もさやかなり、廣小路へ出づれば晝も同樣、雇ひつけの車宿とて無き家なれば路ゆく車を窓から呼んで、合點が行つたら兎も角も歸れ、主人《あるじ》の留守に斷なしの外出、これを咎められるとも申譯の詞は有るまじ、少し時刻は遲れたれど車ならばつひ一ト飛、話しは重ねて聞きに行かう、先づ今夜は歸つて呉れとて手を取つて引出すやうなるも事あら立てじの親の慈悲、阿關はこれまでの身と覺悟してお父樣、お母樣、今夜の事はこれ限り、歸りまするからは私は原田の妻なり、良人を誹《そし》るは濟みませぬほどに最う何も言ひませぬ、關は立派な良人を持つたので弟の爲にも好い片腕、あゝ安心なと喜んで居て下されば私は何も思ふ事は御座んせぬ、決して決して不了簡など出すやうな事はしませぬほどに夫れも案じて下さりますな、私の身體は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、彼の人の思ふまゝに何となりして貰ひましよ、夫では最う私は戻ります、亥之さんが歸つたらば宜しくいふて置いて下され、お父樣もお母樣も御機嫌よう、此次には笑ふて參りまするとて是非なさゝうに立あがれば、母親は無けなしの巾着さげて出て駿河臺まで何程《いくら》でゆくと門なる車夫に聲をかくるを、あ、お母樣それは私がやりまする、有がたう御座んしたと温順《おとな》しく挨拶して、格子戸くゞれば顏に袖、涙をかくして乘り移る哀れさ、家には父が咳拂ひの是れもうるめる聲成し。

       下

 さやけき月に風のおと添ひて、虫の音たえ/″\に物がなしき上野へ入りてよりまだ一町もやう/\と思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅《かぢ》を止めて、誠に申かねましたが私はこれで御免を願ひます、代は入りませぬからお下りなすつてと突然《だしぬけ》にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿關は胸をどつきりとさせて、あれお前そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり増しは上げやうほどに骨を折つてお呉れ、こんな淋しい處では代りの車も有るまいではないか、それはお前人困らせといふ物、愚圖らずに行つてお呉れと少しふるへて頼むやうに言へば、増しが欲しいと言ふのでは有ませぬ、私からお願ひです何うぞお下りなすつて、最う引くのが厭やに成つたので御座りますと言ふに、夫ではお前加減
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