れ可愛《かあい》し、いかなる夢をか見つる。乳まいらせん」と懐《ふところ》あくれば、笑《え》みてさぐるも憎くからず、「勿躰《もつたい》なや、この子といふ可愛《かあい》きもあり。此子《これ》が為《ため》、我が為、不自由あらせじ、憂き事のなかれ、少しは余裕もあれかしとて、朝は人より早く起き、夜《よ》はこの通り更けての霜に寒さを堪《こら》へて、『袖《そで》よ、今の苦労は愁《つ》らくとも、暫時《しばし》の辛棒《しんぼう》ぞしのべかし。やがて伍長《ごちやう》の肩書も持たば、鍛工場《たんこうじやう》の取締りとも言はれなば、家は今少し広く、小女《こおんな》の走り使ひを置きて、そのかよわき身に水は汲《く》まさじ。我れを腑甲斐《ふがひ》なしと思ふな。腕には職あり、身は健かなるに、いつまでかくてはあらぬ物を』と口癖《くちぐせ》に仰せらるゝは、何所《どこ》やら我が心の顔に出でゝ、卑しむ色の見えけるにや。恐ろしや、この大恩の良人《おつと》に然《さ》る心を持ちて、仮にもその色の顕《あら》はれもせば。
 父の一昨年《おとゝし》うせたる時も、母の去年うせたる時も、心からの介抱に夜《よ》るも帯を解き給はず、咳《せ》き入るとては背を撫《な》で、寐《ね》がへるとては抱起《だきおこ》しつ、三月《みつき》にあまる看病を人手《ひとで》にかけじと思《おぼ》し召《めし》の嬉《うれ》しさ、それのみにても我れは生涯《せうがい》大事《だいじ》にかけねばなるまじき人に、不足らしき素振《そぶり》のありしか。我れは知らねど、さもあらば何《なん》とせん。果敢《はか》なき楼閣を空中に描《えが》く時、うるさしや我が名の呼声《よびごえ》、袖《そで》、何《なに》せよ彼《かに》せよの言付《いひつけ》に消されて、思ひこゝに絶ゆれば、恨《うらみ》をあたりに寄せもやしたる。勿躰《もつたい》なき罪は我が心よりなれど、桜町の殿といふ面《おも》かげなくば、胸の鏡に映るものもあらじ。罪は我身《わがみ》か、殿か、殿だになくは我が心は静《しづか》なるべきか。否《いな》、かゝる事は思ふまじ。呪咀《じゆそ》の詞《ことば》となりて忌むべき物を。
 母が心の何方《いづかた》に走れりとも知らで、乳に倦《あ》きれば乳房に顔を寄せたるまゝ思ふ事なく寐入《ねいり》し児《ちご》の、頬《ほう》は薄絹《うすぎぬ》の紅《べに》さしたるやうにて、何事を語らんとや、折々《をり/\》曲《ま》ぐる口元の愛らしさ、肥えたる腮《あご》の二重《ふたへ》なるなど、かかる人さへある身にて、我れは二《ふ》タ心《ごゝろ》を持ちて済むべきや。夢さら二タ心は持たぬまでも、我が良人《おつと》を不足に思ひて済むべきや。はかなし、はかなし、桜町の名を忘れぬ限り、我れは二タ心の不貞の女子《おなご》なり」
 児《ちご》を静かに寝床にうつして、女子《をなご》はやをら立《たち》あがりぬ。眼《め》ざし定《さだ》まりて口元かたく結びたるまゝ、畳の破れに足も取られず、心ざすは何物ぞ。葛籠《つゞら》の底に納めたりける一二枚《いちにまい》の衣《きぬ》を打《うち》かへして、浅黄《あさぎ》ちりめんの帯揚《おびあげ》のうちより、五|通《つう》六通、数ふれば十二|通《つう》の文《ふみ》を出《いだ》して旧《もと》の座へ戻《もど》れば、蘭燈《らんとう》のかげ少し暗きを、捻《ね》ぢ出《いだ》す手もとに見ゆるは殿の名。「よし匿名《かくしな》なりとも、この眼《め》に感じは変るまじ。今日まで封じを解かざりしは、我れながら心強しと誇りたる浅《あさ》はかさよ。胸のなやみに射る矢のおそろしく、思へば卑怯《ひきよう》の振舞《ふるまひ》なりし。身の行ひは清くもあれ、心の腐りのすてがたくば、同じ不貞の身なりけるを、いざさらば心試《こゝろだめ》しに拝し参らせん。殿も我が心を見給へ、我が良人《をつと》も御覧ぜよ。
 神もおはしまさば我《わ》が家《や》の軒に止《とゞ》まりて御覧ぜよ、仏もあらば我がこの手元に近よりても御覧ぜよ。我が心は清めるか濁れるか」
 封じ目ときて取出《とりいだ》せば一尋《ひとひろ》あまりに筆のあやもなく、有難き事の数々、辱《かた》じけなき事の山々、思ふ、恋《した》ふ、忘れがたし、血の涙、胸の炎、これ等の文字《もんじ》を縦横《じうわう》に散らして、文字《もんじ》はやがて耳の脇《わき》に恐《おそろ》しき声もて※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《さゝや》くぞかし。一通は手もとふるへて巻納《まきおさ》めぬ、二通も同じく、三通《さんつう》四通《しつう》五六通《ごろくつう》より少し顔の色かはりて見えしが、八九十通《はちくじつゝう》十二通《じうにつう》、開らきては読み、よみては開《ひ》らく、文字《もんじ》は目に入《い》らぬか、入りても得《え》よまぬか。
 長《たけ》なる髪をうしろに結びて、旧《ふ》りたる衣《き
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