て甲斐《かひ》なき御玉章《おんたまづさ》に勿躰《もつたい》なき筆をや染め給ふ。
 幾度《いくたび》幾通《いくつう》の御文《おんふみ》を拝見だにせぬ我れ、いかばかり憎くしと思《おぼ》しめすらん。拝《はい》さばこの胸《むね》寸断になりて、常の決心の消えうせん覚束《おぼつか》なさ。ゆるし給へ、我れはいかばかり憎くき物に覚《おぼ》しめされて、物知らぬ女子《をなご》とさげすみ給ふも厭《いと》はじ。我れはかゝる果敢《はか》なき運を持ちてこの世に生れたるなれば、殿が憎くしみに逢《あ》ふべきほどの果敢なき運を持ちて、この世に生れたるなれば、ゆるし給へ、不貞の女子《をなご》に計《はから》はせさせ給ふな、殿。
 卑賤《ひせん》にそだちたる我身《わがみ》なれば、始《はじめ》よりこの以上《うへ》を見も知らで、世間は裏屋に限れる物と定《さだ》め、我家《わがや》のほかに天地のなしと思はゞ、はかなき思ひに胸も燃えじを、暫時《しばし》がほども交《まじは》りし社会は夢に天上に遊べると同じく、今さらに思ひやるも程とほし。身は桜町家《さくらまちけ》に一年《いちねん》幾度《いくど》の出替り、小間使《こまづかひ》といへば人らしけれど、御寵愛《ごてうあい》には犬猫《いぬねこ》も御膝《おひざ》をけがす物ぞかし。
 言はゞ我が良人《をつと》をはづかしむるやうなれど、そもそも御暇《おいとま》を賜はりて家に帰りし時、聟《むこ》と定《さだ》まりしは職工にて工場《こうば》がよひする人と聞きし時、勿躰《もつたい》なき比らべなれど、我れは殿の御地位《ごちゐ》を思ひ合せて、天女が羽衣《はごろも》を失ひたる心地もしたりき。
 よしやこの縁《ゑん》を厭《いと》ひたりとも、野末の草花《さうくわ》は書院の花瓶《くわびん》にさゝれん物か。恩愛ふかき親に苦を増させて、我れは同じき地上に彷遑《さまよは》ん身の、取《とり》あやまちても天上は叶《かな》ひがたし。もし叶ひたりとも、そは邪道にて、正当の人の目よりはいかに汚らはしく浅ましき身とおとされぬべき。我れはさても、殿をば浮世《うきよ》に誹《そし》らせ参らせん事くち惜し。御覧ぜよ、奥方の御目《おめ》には我れを憎しみ、殿をば嘲《あざけ》りの色の浮かび給ひしを」
 女子《おなご》は太息《といき》に胸の雲を消して、月もる窓を引《ひき》たつれば、音に目さめて泣出《なきいづ》る稚児《おさなご》を、「あは
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