軒もる月
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)良人《をつと》は
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)月|氷《こほ》りて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]《さゝや》く
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)折々《をり/\》
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「我が良人《をつと》は今宵《こよひ》も帰りのおそくおはしますよ。我が子は早く睡《ねむ》りしに、帰らせ給はゞ興《きよう》なくや思《おぼ》さん。大路《おほぢ》の霜に月|氷《こほ》りて、踏む足いかに冷たからん。炬燵《こたつ》の火もいとよし、酒もあたゝめんばかりなるを。時は今|何時《なんどき》にか、あれ、空に聞ゆるは上野《うへの》の鐘ならん。二ツ三ツ四ツ、八時《はちじ》か、否《いな》、九時《くじ》になりけり。さても遅くおはします事かな、いつも九時のかねは膳の上にて聞き給ふを。それよ、今宵よりは一時《いちじ》づゝの仕事を延ばして、この子が為《ため》の収入を多くせんと仰せられしなりき。火気《くわき》の満《みち》たる室《しつ》にて頸《くび》やいたからん、振《ふり》あぐる鎚《つち》に手首や痛からん」
女は破《や》れ窓《まど》の障子を開《ひ》らきて外面《そとも》を見わたせば、向ひの軒《のき》ばに月のぼりて、此処《こゝ》にさし入る影はいと白く、霜や添ひ来《き》し身内もふるへて、寒気は肌《はだ》に針さすやうなるを、しばし何事も打《うち》わすれたる如《ごと》く眺《なが》め入《いり》て、ほと長くつく息、月かげに煙をゑがきぬ。
「桜町《さくらまち》の殿《との》は最早《もはや》寝処《しんじよ》に入《い》り給ひし頃《ころ》か。さらずは燈火《ともしび》のもとに書物をや開《ひら》き給ふ。然《さ》らずは机の上に紙を展《の》べて、静かに筆をや動かし給ふ。書かせ給ふは何ならん、何事かの御打合《おんうちあは》せを御朋友《ごほうゆう》の許《もと》へか、さらずば御母上《おんはゝうへ》に御機嫌《おきげん》うかゞひの御状《ごでう》か、さらずば御胸《おむね》にうかぶ妄想《ぼうさう》のすて所《どころ》、詩か歌か。さらずば、さらずば、我が方《かた》に賜はらんと
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