糸《いと》あとに戻《も》どりぬさりとては其《そ》のおやさしきが恨《うら》みぞかし一向《ひたすら》につらからばさてもやまんを忘《わす》られぬは我身《わがみ》の罪《つみ》か人《ひと》の咎《とが》か思《おも》へば憎《にく》きは君様《きみさま》なりお声《こゑ》聞《き》くもいや御姿《おすがた》見《み》るもいや見《み》れば聞《き》けば増《ま》さる思《おも》ひによしなき胸《むね》をもこがすなる勿体《もつたい》なけれど何事《なにごと》まれお腹立《はらだ》ちて足踏《あしぶみ》ふつになさらずは我《わ》れも更《さ》らに参《まゐ》るまじ願《ねが》ふもつらけれど火水《ひみづ》ほど中《なか》わろくならばなか/\に心安《こゝろやす》かるべしよし今日《けふ》よりはお目《め》にもかゝらじものもいはじお気《き》に障《さは》らばそれが本望《ほんまう》ぞとて膝《ひざ》につきつめし曲尺《ものさし》ゆるめると共《とも》に隣《となり》の声《こゑ》を其《そ》の人《ひと》と聞《き》けば決心《けつしん》ゆら/\として今《いま》までは何《なに》を思《おも》ひつる身《み》ぞ逢《あ》ひたしの心《こゝろ》一途《いちづ》になりぬさりながら心《こゝろ》は心《こゝろ》の外《ほか》に友《とも》もなくて良之助《りやうのすけ》が目《め》に映《うつ》るもの何《なん》の色《いろ》もあらず愛《あい》らしと思《おも》ふ外《ほか》一|点《てん》のにごりなければ我《わが》恋《こ》ふ人《ひと》世《よ》にありとも知《し》らず知《し》らねば憂《う》きを分《わか》ちもせず面白《おもしろ》きこと面白《おもしろ》げなる男心《をとこごゝろ》の淡泊《たんぱく》なるにさしむかひては何事《なにごと》のいはるべき後世《のちのよ》つれなく我身《わがみ》うらめしく春《はる》はいづこぞ花《はな》とも云《い》はで垣根《かきね》の若草《わかくさ》おもひにもえぬ
(下)
千代《ちい》ちやん今日《けふ》は少《すこ》し快《よ》い方《はう》かへと二|枚折《まいをり》の屏風《べうぶ》押《お》し明《あ》けて枕《まくら》もとへ坐《すは》る良之助《りやうのすけ》に乱《み》だせし姿《すがた》恥《はづ》かしく起《お》きかへらんとつく手《て》もいたく痩《や》せたり。寝《ね》て居《ゐ》なくてはいけないなんの病中《びやうちう》に失礼《しつれい》も何《なに》もあつたものぢやアないそれとも少《すこ》し起《お》きて見《み》る気《き》なら僕《ぼく》に寄《よ》りかゝつて居《ゐ》るがいゝと抱《いだ》き起《おこ》せば居直《ゐなほ》つて。良《りやう》さん学校《がくかう》が御試験中《ごしけんちう》だと申《まを》すではございませんか。アヽ左様《さう》。それに妾《わたし》の処《ところ》へばつかし来《き》て居《ゐ》らしやつてよろしいんですか。そんな事《こと》まで気《き》にするには及《およ》ばない病気《びやうき》の為《ため》にわるいから。だつて何《ど》うもすみませんもの。すむのすまないのとそんなこと気《き》にするより一|日《にち》も早《はや》く癒《よ》くなつて呉《く》れるがいゝ。御親切《ごしんせつ》に有難《ありがた》うございますですが今度《こんど》は所詮《しよせん》癒《なほ》るまいと思《おも》ひます。又《また》馬鹿《ばか》なことを云《い》ふよそんな弱《よは》い気《き》だから病気《びやうき》がいつまでも癒《なほ》りやアしない君《きみ》が心細《こゝろぼそ》ひ事《こと》を云《い》つて見《み》たまへ御父《おとつ》さんやお母《つか》さんがどんなに心配《しんぱい》するか知《し》れません孝行《かう/\》な君《きみ》にも似合《にあ》はない。でも癒《よ》くなる筈《はず》がありませんものと果敢《はか》なげに云《い》ひて打《う》ちまもる睫《まぶた》に涙《なみだ》は溢《あふ》れたり馬鹿《ばか》な事《こと》をと口《くち》には云《い》へどむづかしかるべしとは十指《じつし》のさす処《ところ》あはれや一日《ひとひ》ばかりの程《ほど》に痩《や》せも痩《や》せたり片靨《かたゑくぼ》あいらしかりし頬《ほう》の肉《にく》いたく落《お》ちて白《しろ》きおもてはいとゞ透《す》き通《とほ》る程《ほど》に散《ち》りかかる幾筋《いくすぢ》の黒髪《くろかみ》緑《みどり》は元《もと》の緑《みどり》ながら油《あぶら》けもなきいた/\しさよ我《われ》ならぬ人《ひと》見《み》るとても誰《たれ》かは腸《はらわた》断《た》えざらん限《か》ぎりなき心《こゝろ》のみだれ忍艸《しのぶぐさ》小紋《こもん》のなへたる衣《きぬ》きて薄《うす》くれなゐのしごき帯《おび》前に結びたる姿《(すが)た》今《いま》幾日《いくひ》見《み》らるべきものぞ年頃《としごろ》日頃《ひごろ》片時《かたとき》はなるゝ間《ひま》なく睦《むつ》み合《あ》ひし中《うち》になど底《そこ》の心《こゝろ》知《し》れざりけん少《ちい》さき胸《むね》に今日《けふ》までの物思《ものおも》ひはそも幾何《いくばく》ぞ昨日《きのふ》の夕暮《ゆふぐれ》お福《ふく》が涙《なみだ》ながら語《かた》るを聞《き》けば熱《ねつ》つよき時《とき》はたえず我名《わがな》を呼《よ》びたりとか病《やまい》の元《もと》はお前様《まへさま》と云《い》はるゝも道理《どうり》なり知《し》らざりし我《われ》恨《うら》めしくもらさぬ君《きみ》も恨《うら》めしく今朝《けさ》見舞《みま》ひしとき痩《や》せてゆるびし指輪《ゆびわ》ぬき取《と》りてこれ形見《かたみ》とも見給《みたま》はゞ嬉《うれ》しとて心細《こゝろぼそ》げに打《う》ち笑《ゑ》みたる其心《そのこゝろ》今少《いますこ》し早《はや》く知《し》らば斯《か》くまでには衰《おとろ》へさせじをと我罪《わがつみ》恐《おそ》ろしく打《うち》まもれば。良《りやう》さん今朝《けさ》の指輪《ゆびわ》はめて下《くだ》さいましたかと云《い》ふ声《こゑ》の細《ほそ》さよ答《こた》へは胸《むね》にせまりて口《くち》にのぼらず無言《むごん》にさし出《だ》す左《ひだり》の手《て》を引《ひ》き寄《よ》せてじつとばかり眺《なが》めしが。妾《わら(は)》と思《おも》つて下《くだ》さいと云《い》ひもあへずほろ/\とこぼす涙《なみだ》其《その》まゝ枕《まくら》に俯伏《うつぶ》しぬ。千代《ちい》ちやんひどく不快《わるく》でもなつたのかい福《ふく》や薬《くすり》を飲《の》まして呉《く》れないか何《ど》うした大変《たいへん》顔色《かほいろ》がわろくなつて来《き》たおばさん鳥渡《ちよつと》と良之助《りやうのすけ》が声《こゑ》に驚《おど》かされて次《つぎ》の間《ま》に祈念《きねん》をこらせし母《はゝ》も水初穂取《みづはつほと》りに流《なが》し元《もと》へ立《た》ちしお福《ふく》も狼狽敷《あはたゞしく》枕元《まくらもと》にあつまればお千代《ちよ》閉《と》ぢたる目《め》を開《ひ》らき。良《りやう》さんは。良《りやう》さんはお前《まへ》の枕元《まくらもと》にそら右《みぎ》の方《はう》においでなさるよ。阿母《おつか》さん良《りやう》さんにお帰《か》へりを願《ねが》つて下《くだ》さい。何故《なぜ》ですか僕《ぼく》が居《ゐ》ては不都合《ふつがふ》ですかヱ居《ゐ》てもわるひことはあるまい。福《ふく》やお前《まへ》から良《りやう》さんにお帰《か》へりを願《ねが》つておくれ。貴嬢《あなた》は何《なに》をおつしやいます今《いま》まで彼《あ》れ程《ほど》お待遊《まちあそ》ばしたのに又《また》そんなことをヱお心持《こゝろもち》がおわるひのならお薬《くすり》をめしあがれ阿母《おつか》さまですか阿母《おつか》さまはうしろに。こゝに居《ゐ》るよお千代《ちよ》や阿母《おつか》さんだよいゝかへ解《わか》つたかへお父《とつ》さんもお呼申《よびまを》したよサアしつかりして薬《くすり》を一口《ひとくち》おあがりヱ胸《むね》がくるしいアヽさうだらう此《この》マア汗《あせ》を福《ふく》やいそいでお医者様《いしやさま》へお父《とつ》さんそこに立《た》つて入《い》らつしやらないで何《ど》うかしてやつて下《く》ださい良《りやう》さん鳥渡《ちよつと》其《そ》の手拭《てぬぐひ》を何《なん》だとヱ良《りやう》さんに失礼《しつれい》だがお帰《か》へり遊《あそ》ばしていたゞきたいとあゝさう申《まを》すよ良《りやう》さんおきゝの通《とほり》ですからとあはれや母《はゝ》は身《み》も狂《きやう》するばかり娘《むすめ》は一|語《ご》一|語《ご》呼吸《こきふ》せまりて見《み》る/\顔色《かほいろ》青《あほ》み行《ゆ》くは露《つゆ》の玉《たま》の緒《を》今宵《こよひ》はよもと思《おも》ふに良之助《りやうのすけ》起《た》つべき心《こゝろ》はさらにもなけれど臨終《いまは》に迄《まで》も心《こゝろ》づかひさせんことのいとをしくて屏風《べうぶ》の外《ほか》に二|足《あし》ばかり糸《いと》より細《ほそ》き声《こゑ》に良《りやう》さんと呼《よ》び止《と》められて何《なに》ぞと振《ふ》り返《か》へれば。お詫《わび》は明日《みやうにち》。風《かぜ》もなき軒端《のきば》の桜《さくら》ほろ/\とこぼれて夕《ゆふ》やみの空《そら》鐘《かね》の音《ね》かなし
底本:「新日本古典文学大系 明治編 24 樋口一葉集」岩波書店
2001(平成13)年10月15日第1刷発行
初出:「武蔵野 第一編」
1892(明治25)年3月23日
※括弧付きのルビは校注者が加えたものです。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年8月9日作成
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