いふ人はあるまじ、故郷《ふるさと》なればこそ年々の夏休みにも、人は箱根伊香保ともよふし立つる中を、我れのみ一人あし曳の山の甲斐に峯のしら雲あとを消すこと左りとは是非もなけれど、今歳この度みやこを離れて八王子に足をむける事これまでに覺えなき愁《つ》らさなり。
養父清左衞門、去歳《こぞ》より何處|※[#「研のつくり」、第3水準1−84−17]處《そこ》からだに申分ありて寐つ起きつとの由は聞きしが、常日頃すこやかの人なれば、さしての事はあるまじと醫者の指圖などを申しやりて、此身は雲井の鳥の羽がひ自由なる書生の境界《きやうがい》に今しばしは遊ばるゝ心なりしを、先きの日故郷よりの便りに曰く、大旦那さまこと其後の容躰さしたる事は御座なく候へ共、次第に短氣のまさりて我意《わがまゝ》つよく、これ一つは年の故には御座候はんなれど、隨分あたりの者御機げんの取りにくゝ、大心配を致すよし、私など古狸の身なれば兎角つくろひて一日二日と過し候へ共、筋のなきわからずやを仰せいだされ、足もとから鳥の立つやうにお急きたてなさるには大閉口に候、此中《このぢう》より頻に貴君樣を御手もとへお呼び寄せなさり度、一日も早く家督
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