此樣《こん》な事を問ひかけるに、仰しやるまでもなく、どんなに家中が淋しく成りましよう、東京《こゝ》にお出あそばしてさへ、一ト月も下宿に出て入らつしやる頃は日曜が待どほで、朝の戸を明けるとやがて御足おとが聞えはせぬかと存じまする物を、お國へお歸りになつては容易に御出京もあそばすまじければ、又どれほどのお別れに成りまするやら、夫れでも鐵道が通ふやうに成りましたら度々御出あそばして下さりませうか、そうならば嬉しけれどゝ言ふ、我れとても行きたくてゆく故郷でなければ、此處に居られる物なら歸るではなく、出て來られる都合ならば又今までのやうにお世話に成りに來まする、成るべくは鳥渡《ちよつと》たち歸りに直ぐも出京したきものと輕くいへば、それでもあなたは一家の御主人さまに成りて采配をおとりなさらずは叶ふまじ、今までのやうなお樂の御身分ではいらつしやらぬ筈と押へられて、されば誠に大難に逢ひたる身と思しめせ。
我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峯々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示めさねども冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やう/\※[#「澁」の「さんずい」に代えて「魚」、第4水準2−93−77]《まぐろ》の刺身が口に入る位、あなたは御存じなけれどお親父《とつ》さんに聞て見給へ、それは隨分不便利にて不潔にて、東京より歸りたる夏分などは我まんのなりがたき事もあり、そんな處に我れは括《くゝ》られて、面白くもない仕事に追はれて、逢ひたい人には逢はれず、見たい土地はふみ難く、兀々《こつ/\》として月日を送らねばならぬかと思に、氣のふさぐも道理とせめては貴孃《あなた》でもあはれんでくれ給へ、可愛さうなものでは無きかと言ふに、あなたは左樣仰しやれど母などはお浦山しき御身分と申て居りまする。
何が此樣な身分うら山しい事か、こゝで我れが幸福《しやわせ》といふを考へれば、歸國するに先だちてお作が頓死するといふ樣なことにならば、一人娘のことゆゑ父親《てゝおや》おどろいて暫時は家督沙汰やめになるべく、然るうちに少々なりともやかましき財産などの有れば、みすみす他人なる我れに引わたす事をしくも成るべく、又は縁者の中なる欲ばりども唯にはあらで運動することたしかなり、その曉に何かいさゝか仕損なゐでもこしらゆ
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