無し、龍華寺は何《どれ》ほど立派な檀家ありと知らねど、我が姉さま三年の馴染に銀行の川樣、兜町の米樣もあり、議員の短小《ちい》さま根曳して奧さまにと仰せられしを、心意氣氣に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、彼の方とても世には名高きお人と遣手衆《やりてしゆ》の言はれし、嘘ならば聞いて見よ、大黒やに大卷の居ずば彼の樓《いへ》は闇とかや、さればお店の旦那とても父さん母さん我が身をも粗畧には遊ばさず、常々大切がりて床の間にお据へなされし瀬戸物の大黒樣をば、我れいつぞや坐敷の中にて羽根つくとて騷ぎし時、同じく並びし花瓶《はないけ》を仆し、散々に破損《けが》をさせしに、旦那次の間に御酒めし上りながら、美登利お轉婆が過ぎるのと言はれしばかり小言は無かりき、他の人ならば一通りの怒りでは有るまじと、女子衆達にあと/\まで羨まれしも必竟は姉さまの威光ぞかし、我れ寮住居に人の留守居はしたりとも姉は大黒屋の大卷、長吉風情に負《ひ》けを取るべき身にもあらず、龍華寺の坊さまにいぢめられんは心外と、これより學校へ通ふ事おもしろからず、我まゝの本性あなどられしが口惜しさに、石筆を折り墨をすて、書物《ほん》も十露盤《そろばん》も入らぬ物にして、中よき友と埓も無く遊びぬ。
八
走れ飛ばせの夕べに引かへて、明けの別れに夢をのせ行く車の淋しさよ、帽子まぶかに人目を厭ふ方樣もあり、手拭とつて頬かふり、彼女《あれ》が別れに名殘の一|撃《うち》、いたさ身にしみて思ひ出すほど嬉しく、うす氣味わるやにたにたの笑ひ顏、坂本へ出ては用心し給へ千住がへりの青物車にお足元あぶなし、三嶋樣の角までは氣違ひ街道、御顏のしまり何れも緩《ゆ》るみて、はゞかりながら御鼻の下ながながと見えさせ給へば、そんじよ其處らに夫れ大した御男子樣《ごなんしさま》とて、分厘の價値《ねうち》も無しと、辻に立ちて御慮外を申もありけり。楊家《やうか》の娘君寵をうけてと長恨歌《ちやうごんか》を引出すまでもなく、娘の子は何處にも貴重がらるゝ頃なれど、此あたりの裏屋より赫奕姫《かくやひめ》の生るゝ事その例多し、築地の某屋《それや》に今は根を移して御前さま方の御相手、踊りに妙を得し雪といふ美形、唯今のお座敷にてお米のなります木はと至極あどけなき事は申とも、もとは此所の卷帶黨《まきおびづれ》にて花がるたの内職せしものなり、評判は其頃に高く去るもの日々に疎ければ、名物一つかげを消して二度目の花は紺屋の乙娘、今千束町に新つた屋の御神燈ほのめかして、小吉と呼ばるゝ公園の尤物《まれもの》も根生ひは同じ此處の土成し、あけくれの噂にも御出世といふは女に限りて、男は塵塚さがす黒斑《くろぶち》の尾の、ありて用なき物とも見ゆべし、此界隈に若い衆と呼ばるゝ町並の息子、生意氣ざかりの十七八より五人組、七人組、腰に尺八の伊達はなけれど、何とやら嚴めしき名の親分が手下《てか》につきて、揃ひの手ぬぐひ長提燈、賽ころ振る事おぼえぬうちは素見《ひやかし》の格子先に思ひ切つての串戲も言ひがたしとや、眞面目につとむる我が家業は晝のうちばかり、一風呂浴びて日の暮れゆけば突かけ下駄に七五三の着物、何屋の店の新妓《しんこ》を見たか、金杉の糸屋が娘に似て最う一倍鼻がひくいと、頭腦《あたま》の中を此樣な事にこしらへて、一軒ごとの格子に烟草の無理どり鼻紙の無心、打ちつ打たれつ是れを一世の譽と心得れば、堅氣の家の相續息子地廻りと改名して、大門際に喧嘩かひと出るもありけり、見よや女子《をんな》の勢力《いきほひ》と言はぬばかり、春秋しらぬ五丁町の賑ひ、送りの提燈《かんばん》いま流行らねど、茶屋が廻女《まはし》の雪駄のおとに響き通へる歌舞音曲、うかれうかれて入込む人の何を目當と言問はゞ、赤ゑり赭熊《オやぐま》に裲襠《うちかけ》の裾ながく、につと笑ふ口元目もと、何處が美《よ》いとも申がたけれど華魁衆《おいらんしゆ》とて此處にての敬ひ、立はなれては知るによしなし、かゝる中にて朝夕を過ごせば、衣《きぬ》の白地の紅に染む事無理ならず、美登利の眼の中に男といふ者さつても怕からず恐ろしからず、女郎といふ者さのみ賤しき勤めとも思はねば、過ぎし故郷を出立の當時ないて姉をば送りしこと夢のやうに思はれて、今日此頃の全盛に父母への孝養うらやましく、お職を徹す姉が身の、憂いの愁《つ》らいの數も知らねば、まち人戀ふる鼠なき格子の咒文、別れの背中に手加減の祕密《おく》まで、唯おもしろく聞なされて、廓ことばを町にいふまで去りとは恥かしからず思へるも哀なり、年はやう/\數への十四、人形抱いて頬ずりする心は御華族の御姫樣とて變りなけれど、修身の講義、家政學のいくたても學びしは學校にてばかり、誠あけくれ耳に入りしは好いた好かぬの客の風説《うはさ》、仕着せ積み夜具茶屋への行わたり、派手は美事に
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