らぬ人はャ首やかたぶけん町内一の財産家《ものもち》といふに、家内は祖母と此子《これ》二人、萬《よろづ》の鍵に下腹冷えて留守は見渡しの總長屋、流石に錠前くだくもあらざりき、正太は先へあがりて風入りのよき場處《ところ》を見たてゝ、此處へ來ぬかと團扇の氣あつかひ、十三の子供にはませ過ぎてをかし。古くより持つたへし錦繪かず/\取出し、褒めらるゝを嬉しく美登利さん昔しの羽子板を見せよう、これは己れの母さんがお邸に奉公して居る頃いたゞいたのだとさ、をかしいでは無いか此大きい事、人の顏も今のとは違ふね、あゝ此母さんが生きて居ると宜いが、己れが三つの歳死んで、お父さんは在るけれど田舍の實家へ歸つて仕舞たから今は祖母さんばかりさ、お前は浦山しいねと無端《そゞろ》に親の事を言ひ出せば、それ繪がぬれる、男が泣く物では無いと美登利に言はれて、己れは氣が弱いのかしら、時々種々の事を思ひ出すよ、まだ今時分は宜いけれど、冬の月夜なにかに田町あたりを集めに廻ると土手まで來て幾度も泣いた事がある、何さむい位で泣きはしない、何故だか自分も知らぬが種々の事を考へるよ、あゝ一昨年から己れも日がけの集めに廻るさ、祖母さんは年寄りだから其うちにも夜るは危ないし、目が惡るいから印形《いんぎやう》を押たり何かに不自由だからね、今まで幾人《いくたり》も男を使つたけれど、老人に子供だから馬鹿にして思ふやうには動いて呉れぬと祖母さんが言つて居たつけ、己れが最う少し大人に成ると質屋を出さして、昔しの通りでなくとも田中屋の看板をかけると樂しみにして居るよ、他處の人は祖母さんを吝だと言ふけれど、己れの爲に儉約《つましく》して呉れるのだから氣の毒でならない、集金《あつめ》に行くうちでも通新町や何かに隨分可愛想なのが有るから、嘸お祖母さんを惡るくいふだらう、夫れを考へると己れは涙がこぼれる、矢張り氣が弱いのだね、今朝も三公の家へ取りに行つたら、奴め身體が痛い癖に親父に知らすまいとして働いて居た、夫れを見たら己れは口が利けなかつた、男が泣くてへのは可笑しいでは無いか、だから横町の野蕃漢《じやがたら》に馬鹿にされるのだと言ひかけて我が弱いを恥かしさうな顏色、何心なく美登利と見合す目つきの可愛さ。お前の祭の姿《なり》は大層よく似合つて浦山しかつた、私も男だと彼んな風がして見たい、誰れのよりも宜く見えたと賞められて、何だ己れなんぞ、お前
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