ゞろに鼻かみわたされて、日記のうちには今宵《こよひ》のおもふこと種々《くさ/″\》しるして、やがて哀れしる人にとおもふ。
 かくて二日《ふつか》ばかり、三日《みつか》の後《のち》なりけん、ゆくりなく訪《と》ひ来《き》し友あり。いと嬉《うれ》しうて、今やこの事かたり出《いで》ん、しばししてや驚《おどろ》かすべき、さこそは人の羨《うら》やましがるべきをと、嬉しきにも猶《なほ》はゞかられつゝ、あらぬ事ども言ひかはすほどに、折しもかの子規《ほとゝぎす》軒端に近う鳴く声のする。「あれ聞き給へ。此宿《こゝ》はこゞゐの森にもあらぬを、この夜頃《よごろ》たえせず声の聞ゆるが上に、ひるさへかく」と打出《うちいだ》したれば、友は得《え》ときがたきおもゝちして、「何をかのたまふ」とたゞに言ふ。かく/\と語れば、「そは承《う》けがたき事」と打《うち》かたぶき打かたぶきするほどに、又も一声《ひとこゑ》二声《ふたこゑ》うちしきれば、「あれが声を郭公《ほとゝぎす》とや。いかにしてさはおぼしつるぞ、いとよき御聞《おんき》きざま」と、友は口おほひもしあへず笑《ゑ》みくつがへる。「いつも暁《あかつき》よりなきいでゝ夕ぐれまでは御軒《おんのき》のものなるを、いかにしてさは聞き給ひけん、物ぐるほしくもおはしますかな」といよ/\笑ふに、「さにはあるまじ。いかで山がらすをさはおもふべき。あの鳴《なく》ね聞き給へ、よもあやまらじ」と不審《いぶ》かしうなりて言へば、「月夜に寝ほうけて鳴出《なきいづ》る時は常の声とも異《こと》なりぬべし。今のなく音《ね》は何かは異ならん。あれ見給へ、飛びゆく姿もさやかなるを」と指さゝれて、あはれこの子規《ほとゝぎす》いつも初音《はつね》をなく物になりぬ。覚《さ》めずは夢のをかしからましを。



底本:「全集樋口一葉 第二巻 小説編二〈復刻版〉」小学館
   1979(昭和54)年10月1日第1版第1刷発行
   1996(平成8)年11月10日復刻版第1刷発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:浅原庸子
2003年3月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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