さをのしづく
樋口一葉
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)式部/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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ある人のもとにて紫式部と清少納言のよしあしいかになどいふ事の侍りし 人は式部/\とたゞほめにほめぬ しかあらんそれさる事ながら清はらのおもとは世にあはれの人也 名家の末なれば世のおぼえもかろからざりしやしらず 万に女ははかなき物なればはか/″\しき後見などもなくてはふれけむほどうしつらしなどみにしみぬべき事ぞ多かりけらし やう/\宮づかへに出初ぬる後宮の御いつくしみにさる人ありとしられ初て香爐峯の雪に簾をまくなど才たけたりとはかくしてぞあらはれぬ 少納言は心づからと身をもてなすよりはかくあるべき物ぞかくあれとも教ゆる人はあらざりき 式部はをさなきより父爲時がをしへ兄もありしかば人のいもうとゝしてかず/\におさゆる所も有たりけん いはゞ富家に生れたる娘のすなほにそだちてそのほど/\の人妻に成たるものとやいはまし 少納言は心たかく身のはか/″\しからざりしかばことに出で行ひにあらはさではいづらいかにと見る人もあらざりけんを式部は天台の一心三觀とやらんおさむる所ふかく侍りし 少納言も佛人にてはありけれどこゝろに浪のさわぎはげしければくまなき月は照らさずや侍りけん あはれなるはかくありける身ぞかし 才はおのづからにして徳はやしなふて後の物にこそ 風しづかにしては沖につり舟のかずも見るべく雲さわぎては外山のかげもおぼろげに成ぬべし 式部が日記に少納言をそしりしはさる事ながら此人はうきよのほか物なりける也 わが日の本に三筆のひとつといひし世尊寺の卿をはじめ袖のうつり香ゆかしとしたひし君たちのうちたれかはまが/\敷しれものあらんや さる人々の此君に別れぬる後いかならんつまを得たりともあはれたちまさりてなどおもへるはあらじ 一時の情に一とおもはれぬるは此人のゝぞみたりぬる成かし 駿馬の骨といひける終りのさまを淺ましとつまはじきするは其人をしらねばぞかし 宮の御前すら撫子に涙をそゝぎ給ひけるほど少納言のかくありけるは道理也 おなじうは御堂どのが前にて猶今少しいはせまほしき事侍り 此君を女としてあげつらふ人あやまれり はやう女のさかいをはなれぬる人なればつひの世につまも侍らざりき子も侍らざりき 假初の筆すさび成ける枕の草子をひもとき侍るにうはべは花紅葉のうるはしげなることもふたゝび三度見もてゆくに哀れに淋しき氣ぞ此中にもこもり侍る 源氏物がたりを千古の名物とたゝゆるはその時その人のうちあひてつひにさるものゝ出來にけん 少納言に式部フ才なしといふべからず 式部が徳は少納言にまさりたる事もとよりなれどさりとて少納言ををとしめるはあやまれり 式部は天つちのいとしごにて少納言は霜ふる野邊にすて子の身の上成るべし あはれなるは此君の上やといひしに人々あざみ笑ひぬ
物かく筆はやはらかに持てゆび先に力のいらざるぞよきとさる人仰せられしはげにさる事なるべし うでにて書くと又人のいひしいかゞならん うでになりとも力をこめたらば筆の自由をうしなひて文字はたど/\しかるべくや まことにかながきの上手は手に筆のある事をわすれ紙にむかひての用意などおさ/\わすれてゆびはうごくともしらず心は筆のまゝにしたがふか筆は心のまゝにうごくはたゞこの者を心と紙との中立にしてうつし出すにこそ侍らめ されどこれはかな書きの事也 まなはいかゞあらんしらず
まつ人の音づれは聞事まれにして厭はしき人はしば/\來る この人をかりにかの人とおもはましかばうきは變じてたちまちよろこばしかるべきか 好惡もとこれ人欲のまなこより見ればぞかし 清風むねの中にふかばわづらひなからん物を
おもひてはいと遠きこともいたりてはほどなき物ぞかし 何がしの官省とてもつどひて事をとるものなればいとたやすし 商社などのいと大きなるが人ひとりのこゝろよりおこりてかゝる大廈をもかまへ大いなる事業をもなせりと見るに誠や泯江の水の末に驚くが如し ほとけの道にも三界唯一心心外無別法とぞ侍るめる
はかなくて世に落はふれたる人をおろかにつたなしとてあざけらんは恥かしかるべし 行水にも淵瀬あり人の世に窮達なからめやは 孔子の道にくたしめられしたとへも侍る されば時にあひてさかんにおごれる人もいかゞたふとばんや 計らぬくゐぜにうさぎを得るたとへも聞ゆ たゞみづからは心を平にして此ながれのほかにすまんこそめやすかるべけれ
此月をいかさまにしておくらん あはれよねもなし こがねなど更に得べき望もあらず 身の職とてもわづかに筆とりてものかくよりほかはあらず
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