》ひ出《いづ》る折しも、ある夜《よ》ふけて近き垣根のうちにさながらの声きこえ出ぬ。よもあらじとは思へど、唯《ただ》そのものゝやうに懐かしく、恋しきにも珍らしきにも涙のみこぼれて、この虫がやうに、よし異物《こともの》なりとも声かたち同じかるべき人の、唯今《ただいま》こゝに立出で来たらばいかならん。我れはその袖《そで》をつと捉《と》らへて放つ事をなすまじく、母は嬉《うれ》しさに物は言はれで涙のみふりこぼし給ふや、父はいかさまに為《な》し給ふらんなど怪しき事を思ひよる。かくて二夜《ふたよ》ばかりは鳴きつ。その後《ご》は何処《いづこ》にゆきけん、仮にも声の聞えずなりぬ。
今も松虫の声きけばやがてその折おもひ出《いで》られて物がなしきに、籠《こ》に飼ふ事は更《さら》にも思ひ寄らず、おのづからの野辺《のべ》に鳴弱《なきよわ》りゆくなど、唯《ただ》その人の別れのやうに思はるゝぞかし。
底本:「全集樋口一葉 第二巻 小説編二〈復刻版〉」小学館
1979(昭和54)年10月1日第1版第1刷発行
1996(平成8)年11月10日復刻版第1刷発行
※このファイルには、以下の青空文庫のテキストを、上記底本にそって修正し、組み入れました。
「雨の夜」(入力:加藤恭子 、校正:浦田伴俊)
「月の夜」(入力:葵、校正:もりみつじゅんじ)
入力:もりみつじゅんじ
校正:浅原庸子
2003年3月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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