《え》がましき事とおもふ。この池かへさせてなど言へども、まださながらにてなん。明《あけ》ぬれば月は空に帰りて余波《なごり》もとゞめぬを、硯はいかさまになりぬらん、夜《よ》な/\影や待《まち》とるらんと哀《あはれ》なり。
 嬉《うれ》しきは月の夜《よ》の客人《まれびと》、つねは疎々《うとうと》しくなどある人の心安げに訪《と》ひ寄《より》たる。男にても嬉しきを、まして女の友にさる人あらば、いかばかり嬉しからん。みづから出《いづ》るに難《かた》からば文《ふみ》にてもおこせかし。歌よみがましきは憎くき物なれど、かかる夜《よ》の一《ひ》ト言《こと》には身にしみて思ふ友ともなりぬべし。大路《おほぢ》ゆく辻占《つじうら》うりのこゑ、汽車の笛の遠くひゞきたるも、何《なに》とはなしに魂あくがるゝ心地す。


        雁《かり》がね

 朝月夜《あさづくよ》のかげ空に残りて、見し夢の余波《なごり》もまだ現《うつつ》なきやうなるに、雨戸あけさして打《うち》ながむれば、さと吹く風|竹《たけ》の葉《は》の露を払ひて、そゞろ寒けく身にしみ渡る折《をり》しも、落《おち》くるやうに雁がねの聞えたる、孤《ひと》つなるは猶《なほ》さら、連ねし姿もあはれなり。思ふ人を遠き県《あがた》などにやりて、明《あけ》くれ便りの待《まち》わたらるゝ頃、これを聞《きき》たらばいかなる思ひやすらんと哀れなり。朝霧ゆふ霧のまぎれに、声のみ洩《も》らして過ぎゆくもをかしく、更けたる枕《まくら》に鐘の音《ね》きこえて、月すむ田面《たのも》に落《おつ》らんかげ思ひやるも哀れ深しや。旅寐《たびね》の床《とこ》、侘人《わびびと》の住家《すみか》、いづれに聞《きき》ても物おもひ添ふる種《たね》なるべし。
 一《ひと》とせ下谷《したや》のほとりに仮初《かりそめ》の家居《いへゐ》して、商人《あきびと》といふ名も恥かしき、唯《ただ》いさゝかの物とり並《なら》べて朝夕《あさゆふ》のたつきとせし頃、軒端《のきば》の庇《ひさし》あれたれども、月さすたよりとなるにはあらで、向ひの家の二階のはづれを僅《わづ》かにもれ出《いづ》る影したはしく、大路に立《たち》て心ぼそく打《うち》あふぐに、秋風たかく吹きて空にはいさゝかの雲もなし。あはれかかる夜《よ》よ、歌よむ友のたれかれ集《つど》ひて、静かに浮世《うきよ》の外《ほか》の物がたりなど言ひ交はしつるはと、俄《には》かにそのわたり恋しう涙ぐまるゝに、友に別れし雁|唯一《ただひと》つ、空に声して何処《いづこ》にかゆく。さびしとは世のつね、命つれなくさへ思はれぬ。擣衣《きぬた》の音《おと》に交《まじ》りて聞えたるいかならん。三《み》つ口《くち》など囃《はや》して小さき子の大路を走れるは、さも淋しき物のをかしう聞ゆるやと浦山《うらやま》しくなん。


        虫《むし》の声《こゑ》

 垣根《かきね》の朝顔やう/\小さく咲きて、昨日今日|葉《は》がくれに一花《ひとはな》みゆるも、そのはじめの事おもはれて哀れなるに、松虫すゞ虫いつしか鳴《なき》よわりて、朝日まちとりて竈馬《こほろぎ》の果敢《はか》なげに声する、小溝《こみぞ》の端《はし》、壁の中など有るか無きかの命のほど、老《おい》たる人、病める身などにて聞《きき》たらば、さこそ比らべられて物がなしからん。まだ初霜は置くまじきを、今年は虫の齢《よは》ひいと短かくて、はやくに声のかれ/″\になりしかな。くつわ虫はかしましき声もかたちもいと丈夫《ぢやうぶ》めかしきを、何《いつ》しか時《とき》の間《ま》におとろへ行くらん。人にもさる類《たぐ》ひはありけりとをかし。鈴虫はふり出《いで》てなく声のうつくしければ、物ねたみされて齢《よは》ひの短かきなめりと点頭《うなづ》かる。松虫も同じことなれど、名《な》と実《じつ》と伴はねばあやしまるゝぞかし。常盤《ときは》の松を名に呼べれば、千歳《ちとせ》ならずとも枯野の末まではあるべきを、萩《はぎ》の花ちりこぼるゝやがて声せずなり行く。さる盛りの短かきものなれば、暫時《しばし》も似《あへ》よとこの名は負《おは》せけん、名づけ親ぞ知らまほしき。
 この虫|一《ひと》とせ籠《こ》に飼ひて、露にも霜にも当てじといたはりしが、その頃《ころ》病ひに臥《ふ》したりし兄の、夜《よ》な/\鳴くこゑ耳につきて物侘《ものわび》しく厭《いと》はしく、あの声なくは、この夜《よ》やすく睡《ねむ》らるべしなど言へるも道理《ことわり》にて、いそぎ取《とり》おろして庭草の茂みに放ちぬ。その夜《よ》なくやと試みたれど、さらに声の聞えねば、俄《には》かに露の身に寒《さぶ》く、鳴くべき勢ひのなくなりしかと憐《あは》れみ合ひし、そのとし暮れて兄は空《むな》しき数に入《い》りつ。又の年の秋、今日ぞこの頃《ごろ》など思《おも
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