伐の舊陣に兵庫の港へ船を寄せられた時、現はれて皇軍を迎へ奉つた神を祀つたものであるとして居る。更に「石清水宮寺縁事抄」(喜田貞吉博士「夷三郎考」引)には「攝津國武庫山ハ神功皇后異國ヲ討給時、三萬八千荒神ノ武兵ヲ置給山也。仍稱[#二]武庫山[#一]。其三萬八千荒神ハ御[#二]座西宮[#一]。」と云つてゐる。これ等のことは何を語るか。神功皇后が制海權を握つてゐたらしい北九州の部族の協力を求められたこと、八幡神はこの部族の神であり、この部族の功を賞してその祖《おほおや》を祀られた廣田神社が八幡同體であること、夷三郎はこの八幡の眷族であり、部屬の民を象徴してゐるらしいこと等である。
然らばこの八幡を神としてゐた部族は如何なる民であつたかと云ふことは本論の根本であるけれども之れは容易に決し難い。ただ茲に一つの手がかりとなると思はれるのは北九州臼杵地方の磨崖石佛群の存在である。京大の小川琢治博士はこれを逸早く研究調査されたが、その談に依ると、そのうちの不動明王像で普通の法繩の代りに蛇を持つてゐるのがある。然もその蛇は一般の蛇でなく印度産の毒蛇コブラを思はせる程頭の大きい蛇形を示してゐる。即ちこれ
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