鳥獸を追うて移動した。農耕民族には次第に土地に對する信仰が目覺め、土地をあらゆる生物の母とする大地母神崇拜の思想が起つて、一方には亞弗利加及亞米利加インディヤンの生殖器崇拜教を分派し、他方では印度及支那民族の自然崇拜教を創成した。かくて土地を有せざるもの、大地母神の恩惠に浴せざるものを劣等種として卑んだのである。亞弗利加諸民族とブッシュマンとの關係はこの點から説明せられる。
 支那民族は世界に於ける最大の農耕民族であり、彼等が黄河流域に定着して農耕時代に入つたのは西暦紀元前遙かの太古である。彼等の文化彼等の思想の凡てがこの農耕神大地母神信仰に依つて説明されることは田崎仁義博士の研究に依つて明かにされた。(「支那古代經濟思想及制度」)。されば彼等が土地に定着せず、農耕の業にたづさはらぬ優人等を蔑視したのは蓋し當然であらう。
 同じことが日本に於けるあらゆる非農耕民と農耕民との關係に見ることが出來る。孝徳天皇の大化の革新に依つて凡ては平等の人民となつたやうであるが、事實その區別は確然と保持されてゐた。上古日本の人民は治者階級に依つて良民と賤民と雜戸とに三大別された。良民と云ふのは即ち農耕の民に限られてゐる。賤民は官戸・家人・官奴婢・私奴婢及び陵戸の五つである(喜田貞吉博士)。即ち何れも奉公人奴隷的境遇に置かれたもので、唯陵戸だけは墓守・隱亡の類であつて、後に土師部が葬送を掌つてから之れと結びついた。雜戸は農耕以外の技術工藝雜役に從ふもので、例へば玉造部・弓削部・鎧作・樂戸・船戸・酒戸・藥戸・雜工戸・鷹戸・その他馬飼や犬飼・機織部・土師部等あらゆる業態を網羅して居る。彼等は聖武天皇に依つて一應平民と見做されることになつたが、更に之れ等のどの職業にも屬さない祝言人《ほがひびと》・遊女・遊藝人の徒が良民から賤民視されて卑しめられたのは、彼等が治者階級から認められた雜戸にも屬さない浮浪民であるからであつて、結局は農耕を尊重する思想から來て居るのである。
 古い文化の淵源である京都には明治初年まで樣々な浮浪人が新年の祝詞《ことほぎ》に出て來たものである。大和地方から來る萬歳・或は春駒・チョロケン・大神樂・福助・鳥追、それから最も特殊な「ものよし」等々々。――この「ものよし」と云ふのは古老の談に依ると松原通鴨川橋の東詰、今稻荷の小社あるあたりから北、即ち現在宮川町遊廓のある處に天刑
前へ 次へ
全23ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
竹内 勝太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング