とを暗示するものと考へられる。尚拜殿の天井には「源之丞座中」と書いた、古く操に持廻つた確に人形の箱らしく思はれる形の木函が奉納されて吊り下げてあつたし、また片隅の棚には嘉永六年の年號のある古風な行燈が乘せてあつた。昔はこの社殿の前で操を演じたと云ふことであるから、この行燈などもそんな場合に用ゐられたものではなからうか。それから社殿の西側に相當大きな平家建があるので、何か祭神の器具でも納めてあるのかと想像して案内の吉田家の人に訊ねて見たが、これは村の人達の集會所に充てられるもので、何も這入つてはゐないと云ふことであつた。して見ると三條では今でも明かに此の八幡宮を中心にして聚落生活が行はれてゐることがわかるのである。
 市村には別に立派な市の蛭子神社があるが雪が益※[#二の字点、1−2−22]降りしきるので斷念して、間近い元祖上村源之丞の家を訪ねて見た。然し之れも當代の源之丞は一家をあげて二十年程前に徳島に移轉してゐるので何物も見せて貰ふ譯にはゆかない。ただ古い門構へや、その傍に長い納屋風の人形倉が並んでゐる樣子が如何にも古い座元の家らしく感じられて興味が深かつた。歸途は四國街道の養宜《やぎ》の松原を眞直ぐに取つて、途中廣田村|中條《なかすぢ》の蛭子神社に立寄り、夕刻洲本の宿へ歸り着いた。
 同夜は、土地の藝術《アマチュール》愛好者の集りさつき會の招待を受け、その席で人形や美術の話に夜をふかしたが、流石に人形の本場だけに今尚一般に義太夫淨瑠璃の盛んなことは想像以上であり、大抵の人がこの藝を嗜まぬものはない有樣であるのに、今更ながら民俗藝術の力の大きさを痛感させられたのであつた。
 翌十二日は前夜の大風雪の爲め兵庫洲本間の最終定期船が休航したので豫定の時間に船が出ない。歸りの都合もある處からやむを得ず再度自動車を傭うて海岸線を岩屋へぬけた。途中鹽田村で土地の祭と見えて、赤烏帽子の子供が二人櫓太鼓の上に乘つて之れを打ち、同じやうな子供二三十人が之れを擔いでワッショワッショと押し出してゆくのに出會つた。これは全部子供の祭で、大人連は見物しながら聲援してやつてゐる。如何にものどかな漁村の氣持が出てゐて愉快であつた。岩屋からポンポン蒸汽で明石へ渡り、神戸大阪を經てこの行を終つた。

         二、人形操の現状

 昔盛況を極めた頃の人形座の組織は四十人乃至五十人を以て一座
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