却つてその座元所在の地名を被せて志筑源之丞と呼ぶのが通例になつて居るやうである。
 上村源之丞座の由來に就いては既述の通り吉井太郎氏が發表されたやうなことが座元の人々に依つて傳へられてゐる以外に明確な資料は得られない。吉田氏や土地の古老の言葉を要約すれば、昔人形舞はしの百太夫と云ふものが三條へやつて來て、菊太夫と云ふものの娘と結婚したが、その間に出來た子に自分の業をつがせた。之れが淡路人形操の根元であると云ふことになつてゐる。そしてこの百太夫が道薫坊であるとも云ひ、百太夫が道薫坊と云ふ人形を持つて來たとも云ふ。それで見ると一應淡路の人形操は他地方から傳へられたものであり、百太夫がその祖であると解されるが、抑※[#二の字点、1−2−22]その百太夫と云ふものの本體が頗る捕捉し難いものであるから、結局これが疑問の焦點となつて來るのである。
 處でこの百太夫が西宮の夷神社と關係の深いことは前記吉井氏の研究に依つて明かにされ、同社の末社に百太夫社があることも又それが西宮傀儡師の祭神であることも裏書された。そしてこの西宮傀儡師が定住した部落は今尚西宮市の西宮神社の北に地名として殘つてゐる産所である。然るに淡路操座のある市村字三條は古く産所と書き、現在も尚地元の人々に依つて短く「さんじよ」と發音されてゐる。のみならず私の地元踏査に依つて百太夫社は夷社と合祀されて、三條八幡の攝社となつて居り、西宮の夷神社が廣田神社の攝社であり、百太夫社がその末社であるのと同巧異曲であることがわかつた。これで見ると西宮産所と市村字三條との關係が略※[#二の字点、1−2−22]想像されるのであるが、更にこの市村に隣接する廣田村の歴史が一層西宮と淡路との關係を密接にする。
 廣田村は古くは廣田郷と呼ばれた。淡路國名所圖會所載の「東鑑」の記事に依れば、「壽永三年四月二十八日、平氏在西國、之由風聞[#(ス)]仍[#(テ)]被遣軍兵、爲[#二]征罰無事御祈祷[#一]、以[#(テ)]淡路國廣田庄[#(ヲ)]被[#(ル)]寄附廣田社[#(ニ)]。寄進。廣田社神領。在淡路國廣田領一所。右爲[#(ニ)]増神威、殊[#(ニ)]存祈祷[#(ヲ)]、寄進如件。壽永三年四月二十八日。正四位下源朝臣。」云々とある。之れは西宮廣田神社の神領として淡路の廣田郷、今の三原郡廣田村を源頼朝が寄進したのである。廣田村には前記の通り廣田
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