度々その前に立止ったものだった。元よりそれは全く単純で貧しい技術を持った人形芝居に過ぎない。然し誰がそれを軽蔑し得よう。少年ゲーテが故郷フランクフルトで旅廻りの人形芝居を見た印象から、後年あの大作「ファウスト」を書いたように、此の巴里のギニョールも沢山の仏蘭西少年の心のなかに、人類の至宝ともなるべき大きな夢を今現に育てつつあるのかも知れない。

     *

 欧羅巴では現在の処一般に人形芝居は子供の為めのものとされているが必らずしもそうではない。大人も之れを見て楽しんだことは東洋諸国と共に歴史が古い。伊太利では遠く羅馬時代から相当立派な人形芝居が存在していた。下って十六七世紀にはベニス、ボロニヤ、ミラノ、ナポリ等の土地にそれぞれの人形芝居が発達していた。之れは糸操りの人形である。それが近代に入って殆ど衰滅に瀕していたのが復興され、再生されてピッコリ座となり、一九二八年の冬のシーズンに華々しく巴里に御目見得《デヴイユ》した。
 之れはよく統制された組織と熟達した技術とを持って居り、然も優勢な近代劇術(照明と舞台装置)と音楽とを伴っていたので、忽ち巴里劇壇の一部を席捲して、確固とした地
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