ん」との規定であったが、予約者奪取の競争上、取次店からは予約金を取らない事にしたので、中途の破約も随意と成り、残本の返送も当然と成り、予約出版と云う事実は全く無くなって了った、そこで一般読書子の方へは規定無視の念を普及せしめ、これがため、従来小資本出版屋の便宜手段であった予約出版は行われない事に成った
斯く旧慣破壊で他へ迷惑を及ぼしたのみでなく、自己が「予約会員にのみ頒つもので一冊売りは断じて致しません」と書いた事も反古にされ、今は何処の本屋にても一冊売りをする事になって居る、奴畜生メ《どちくしょうめ》

普通出版界に波及せし悪影響
「出版界に危機をもたらした円本」と云った人もある如く、大量生産で資本主義の弊を遺憾なく暴露した円本出版は、実に普通の出版界に危機をもたらしつつあるのである、自衛上已むを得ぬとして、同じ円本出版に変じた書肆も多いが、此円本流行が永く継続すれば、出版界は共倒れの全滅になるかも知れない
盲目千人目明一人の世の中、カサ高いヤクザ本を見て「これが一円とはヤスイ物、従来二円三円で買って居た本よりも部厚《ぶあつ》で立派だ、これを一円で売っても儲かるものとすれば、本というものは安く出来るものらしい」と思うコケ共が多いので、権威ある堅実な著書の売行が減少したのである、これ円本は正に文教を賊するもの
自己のタメに成る良書を買わないで「安かろう悪かろう」の全集物を買うコケ共の無智は憫むべく、これを買わせる事にした円本出版屋の暴挙は憎むべしである

多数少国民を荼毒せし文弱化
円本中には、科学的有益のものもあるが、それ等はヤハリ少数の読者で、利害は相殺されるものに属する、大量生産で社会を毒しつつある円本は、文芸上の駄作物や、講談という卑俗浅薄の読物類が多いのである、本項はそれに就ての害を挙げる
仮令《よし》や文芸上の大傑作であっても、其読者が低級で作の真髄に触れるだけの能力なくば、猫に小判、寧ろ時間浪費の損あるのみ、真珠と瓦礫《いしころ》との区別がつかない米屋の小僧、蕎麦屋の出前持輩にトルストイを読ませイプセンを読ませて何にかなる、これをしも文学の普及とはチャンチャラ可笑《おか》しい、又大衆の名をかりて徒らに末梢神経をのみ刺激する非芸術品の横行、これをも文運の促進とは聴いて呆れる、大量生産の十が九は、それ等の手に帰する外はあるまい、これを我輩は多数少国民を荼毒せし文弱化と叫ぶのである、判《わか》ったか

融通金主の当惑
円本出版者悉くが資本家ではない、十中の七八までは、自家の金でなく、他より融通を受けて遣繰って居るのである、それは従来の出版屋が「近頃は円本が流行で、普通の単行物を出したのではモノになりませぬ、ワタクシも円本をやるツモリですが、金が少し足りませんから、暫くの間四五万円融通してくれませんか」とか、或は素人が「昨今は円本をやりさえすれば、儲かるのです、金方になって下さい、二三ヶ月の内に返します」など説きつけて金を借りたのである、サテそれが予算の如く儲からない、さりとて止めれば最初の宣伝資金が丸損になる、アトは大した費用もかからないから継続してやればイクラカずつの利益はあると云う勘定で、細々にやって居る、そこで濡手に粟のような甘言を信じて融通した金方は、少しも入金が無いに当惑して居るとの話を聴いた、円本出版屋は後家泣かせ隠居泣かせの罪をも作って居るらしい

印税成金の堕落
大きな強窃盗犯人が捕えられるのは、大概色里での豪遊中である、それは平常貧乏生活の者、持ちつけない大金が懐中《ふところ》に入《はい》ると、先ず第一に性の本能満足、放縦な逸楽を得たい欲念が起って、白粉臭い美人に接したがる煩悩の犬走り、国家の一機関が網を張って居るに気付かず、手もなく「御用」の声で縛に就くのである
円本の著者訳者は、大量生産であるから、五分か一割の印税でも、十万二十万の押印料は、少くも五千円、多いのは一二万円の金が懐中に入る、そこで年中貧乏生活をして下宿料もロクに払えず、或は嬶の腰巻一つも買えなかった凡夫の奴共、強窃盗犯者と同様、先ず第一に駆け付けるのがカフェー、新調の洋服か何かで、五円のチップ「あなたホントニ御様子《スタイル》のいいお方ネー」が始まりで、牛込神楽坂の魔窟、赤坂溜池の料亭ビタリ、始末におえぬ其ダラケさ、フン縛ってやりたい、ここな文壇の剽窃犯人《どろぼう》

ここに一つ附記せねばならぬ事がある、それは「印税前借りの吐き出し」という話、円本流行の凋落に近づいた例証の一つ、雑誌『日本及日本人』所載の一節である
いよ/\円本の没落期が来た、世界文学全集が十万以下に減じたとか、又良さそうでいけないのが、長篇小説全集とやら、もうそろ/\落ちかかったという
長田幹彦といえばその昔、今の三上於菟吉ほどの全盛で文壇を唸《うな》らしたほど
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