につむじ風が起つて自分はぐる/\廻轉して
道の眞中に立止つてしまつた。
女はそんな事には關係も無く
そろ/\と自分の側を通り過ぎた。
あゝその姿のいたましさ
瘠せ衰へ、
脊の小供の重さにおしつぶされたやうに首をうなだれ
幾日も幾日も湯に入らないので垢が白く粉をふいてしまつた
頸筋をあらはし
生れてから油をつけた事はないやうに髮は亂れて前へ垂れ
川尻の塵捨場の山の中にあるやうな
すり減つた下駄をはき
竹の杖をつき乍ら、うつむいて
この春に出逢ふのが面目ないやうに歩いてゆく
眼が見え無いのだ。
貧はこの女の眼までも奪はうとしてゐるのか
それは日の目を見る事が痛くて出來ないのだ
天を見無いで、地面許り見てゐる
脊に眠る小供におしつけられて首ものばせず
腰は極端な謙遜で曲つてゐる
冬中どうしてしのいで來たのか
その半ば盲目の母の手を
亂髮のしかしいゝ顏をした負けぬ氣性の眉宇に現はれた男の子が、
(天はこの子にこの立派な面魂をせめてさづけたのか)。
手をひいて歩いてゆく
脊の小供は眠つて居る。
自分は突差に袂にある僅か七錢の金を手に握つた
然うして見え隱れあとをつけた。
然し三人の親子は自分があとをつけて居ることは知らずに歩くので自分の方が先きになつてしまつた
自分は川を流れてゆく杖を追ひかけ拾ふやうに、
先越しをして路次に立つて、
流れて來るのを待つて居た。
何と云ふ靜かな歩き方だ。のろい流れだ。
もつと早く歩かなくては幸福は逃げてしまふ
そこへ來た時自分は
「ばうや」と男の子を呼んだ。
然しその聲は胸がをどる程大きいと思つたが、
向ふが聾なのか小さくてか聞えなかつた。
自分は恥づかしくて立すくんだ。
三人は又行き過ぎた。
自分は引返へさうと思つた
然しもうそんな餘裕はなかつた。
自分は又三人を追ひ越した。
然うして今度は路次のほとりに何氣なく立つて
通りかゝつた小供を何氣なく呼んで金を渡した
今度は聞えた。聾ではなかつた。
然しこの小供は唖であつた。禮も云はずに
金を受取ると默つてすぐ母に渡した。
母は首から紐をかけて懷に入れた
財布を出してその中へ七錢の錢を入れて禮を云つた。
「大變でせうね」と自分は云つた。
云つたあとからきまり切つてゐると自分は思つた。
「はい小供がありますので……」
あとは聞えなかつた。云へなくて云はなかつたからだ。
自分はもうそこに居なかつた。
腹の中で「大事になさい」と云ひ殘して
元來た通へ引返へした。
ふり返つた時、唖の小供がふりかへつて自分を見た。
眼はよく見えると見える。
太陽のやうに強い氣性で光つてゐた。
自分は目がくらんでしまつた。
どこを歩いたのか滅茶々々に歩き廻つて畠へ來た。
興奮も去つた。
そこは靜かだ。
夢がさめたやうに
自分は沈み込んで孤鼠々々家へ歸つた。
[#地から1字上げ](一九一八、三、三〇)
若い母
若い娘がこの頃生れた許りの
赤ん坊を脊負つて
買ひ物に澤山出た女の中に交つて歩いて居る
彼女はこの新らしい經驗を恥かし相に顏に現はす程
喜んで居る
彼女の笑ひには得意と羞恥[#「羞恥」は底本では「差恥」]があらはれて居る
彼女は木綿の小さつぱりした娘々しい着物を着て
赤ん坊にも贅澤になら無い愛の籠つた新しい着物を着せて居る。
彼女の夫は役所にでも行つて居るのだらう
彼女はまるで喜びに壓倒されて歩いて居る
彼女の前に全世界はどんなに輝いて居るだらう
彼女の心はどんなに賑つて居るだらう
彼女は手柄をしたのだ。
涙ぐみたい程愛の激情に彼女は迫られて居るのだ、
見るものが何も彼も新しく見えるのだ、
見よ若き母が隱し得無い喜びに輝きつゝ
赤ん坊を脊負つて買物に歩むのを
その素直の姿の娘らしいつゝましさを
その質素な姿の美くしさを。
雨上り
雨が降つた
がすぐ止んだ
晴れ上つた空には
濡れた雲が濛々と薄く濃く胞衣のやうに無樣に漂つて居る。
その上に今月が安々と生んだ許りの星が赤く輝いて居る
何も彼も水々しい
母なる月は少し※[#「宀/婁」、53−上−2]れて、然します/\美しく嬉し相に光つてゐる
下界では人は無言で、水たまりの出來た道を拾ひ歩いて居る。
何と云ふ靜かさだ。
天上の騷ぎも知ら無いですんだ樣に
然うしてすつかりと空はとり形づけられて夜は晴れ渡つてゆく
安産を祝ふやうに數多の星が盛裝して月の前に揃つて舞踏する。
父なる太陽がどこからか祝福の光りを一同に送つてゐる。
鶴
動物園の鐵網の中で
ある限りの澤山の鶴が
急に一齊に啼き立てる
何か彼等の上を目に見えぬものが掠め去つたのか
鴉でもおどろかしたのか
救ひを求めるやうに
何か知らせる如く、
急に騷がしくなつて鶴が啼く
胸の底から出る樣な聲で、怺へ切れ無い聲で
鐵網の中をいそがしく不安相に歩き廻つて
天に訴へる樣
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