える。一寸頭を下げる。
白いつゝみを脊負つた洗濯屋の小僧が立止つて門内を見てゐる。
番兵は暇さうに石甃の上を行つたり來たりしてゐる
鐵砲なんか捨てゝノコ/\往來に歩き出しさうだ。
然し筋向ひの西洋料理屋の門前の
少し日の當つた石の上に
顏は見え無いが未だ若相な女が
赤い帽子の赤ん坊を落ちないやうに窮屈さうに
腹をこゞめて帶を締め直して居る。
これからうんと歩く用心に
その側に五つか六つ位の帽子も冠らない未だ頑是ない男の子が、
御母さんの方に體を寄せ乍ら、眼はボンヤリ往來を見てゐる。
親子とも汚ない風だ。
この寒中に白つぽくなつた水色の着物を着てゐる。
その代りやたらに重ねて着てゐる
無論持てゐるだけの着物を着てしまつてゐるのだ。
だがねんねこは無い、白い紐にぢかに子供を脊負つてゐる。
自分の眼には出しぬけに涙が湧いた
今迄のいゝ氣持はとんでしまつた。
何處へ行く女だ、
歩いてこの電車の果てまでももつと先きまでも行くのではあるまいか
もう餘程遠くから歩いて來たのではあるまいか。
坂を上り切つたので疲れて息を入れてゐるのだ。
人を頼つて行くのではなからうか
男に棄てられた女か、夫に死に別れた妻か、
子供があつてどこでも働け無い女
子供は二人とも何もしらないのだ
御母さんの困つてゐる心は知らないのだ。
遊ぶ事は出來ずにあつちこつち連れて歩かせられるのだ。
自分は電車を下りようか
道には着飾つた女や男が通る
皆んな餘裕のあるニコ/\した顏をしてゐる
彼女のやうな女は一人も見當ら無い
兩側の店もあいにく立派だ。
この道は若い彼女にはつらい道だ。
しつかり赤ん坊を脊負つて下を見乍ら、
うしろについて來る小供の足を引ずらして、
泣き度くなるやうな小言を云ひ乍ら、
電車道を急いで行かなくてはならない。
一緒に歩いて遣つたらどんなにいゝか
どこに彼女の夫はゐるのだ。
どこに小供の父はゐるのだ。
若しも亡くなつたのならきつと蔭身に添つてゐるのだらう。
頼つて行く人は親切に彼女を歡迎し相だ。
向ふの方には居さうな氣がする
人は幸福だ。青々して居る。
然し不幸な人がゐる以上
その人をそこまで引上げなくてはならない
力を與へ給へと祈つた。
乘り換へ場で下りた。
あとへ引き返へせば彼女に遇へる
『失禮ですがあなたは困つてゐるのではないのですか』と聞けばいゝ
返事に依つて何でもしよう
電車の片道切符を與へてもいゝ
子供へ菓子か蜜柑位與へる金は五六錢ある
金を與へるのが問題ではない
共力する事が出來ればいゝ
彼女の爲めに働いて遣る事が出來ればいゝ
あゝ友達と二人で歩いて居たらば
きつと心を合はして如何うとか出來る
電車が來た、自分は迷つた
紫色をした一羽の鳩が電車道の敷石へとび下りて歩いた。
鳩が彼女の方へ飛んだらば引返さう
鳩はどつちつかずの屋根へ飛び上つた
自分は人に紛れて電車へ乘つた。
幸福な人は青々と滿ち溢れてゐる。
如何うして多くの幸福が、不幸な人を生むのか。
[#地から1字上げ](十二月一日)

  樹木

北風が止んで夕日の傾く空に
靜かに大きな樹は沈んでゆく
難破船の最後のやうに
枝を開いた樹は妙にゆる/\目のまはるやうに
天體と共に傾いて行く、大きな渦の中に沈んでゆく。
靜かに、光りを加減し乍ら
自分は海上にたゞよふ漂泊者のやうに
涙をためて汝を見送る
靄に包まれて汝の沈み果てるまで
日に別れて行く汝の姿は悲壯だ。

日は沒し、汝も急に沈む。
然し月夜は再び汝の姿をもつて來た。
汝は優しい姿を保つて海底に見棄てられてゐる。
早くも光りの鱗屑の類ひは夥しく群れ來り
大きな藻のやうに開いた枝や葉の上に集つて
跳ね、躍り、宿つて眠る。

然うして眞夜中の潮が滿ちて來ると
汝の姿はいよ/\靜かにすみ渡つて
思ひ出した樣に打ち寄せる波に少し搖れる
眠れる魚は驚いて一時に目覺め
枝を離れて空にとび散りをどんだ光りをわきかへらせる。
その時、時は過ぎて行く陣痛のやうに、
汝は健げな産婦のやうにあわてないで落葉をする。
幽かな音を發して落葉はふれ合つてこぼれる、
思はず口をきいたやうに。
然うしていよ/\冴え渡る生命の水底に
樹はつくりものゝやうに動かない。

あゝ樹よ、汝は生きてゐる
見るものも無い眞夜中に
見て居るものがあるのを知つたら
汝は消え失せはしないか
然し汝は消える事は出來無い
汝は力を出しすぎて居る
汝の消えるのは手間がかゝる
汝はだまされたやうに
冬の最中に春が來たやうに
いよ/\靜かに光つて光りぬく。

あゝ冬の夜の戸外の美くしさ
白晝のやうな眩さ、
究り無い美くしさ、
霜と星の光線の入り亂れ
一本一本の枝はイルミネーシヨンする
その淨さ、その整しさ、
星は曉の近い赤さを帶びて
一齊に火を噴きかける。清い息を吹きかける。
然うしてぐる/
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