である。
誰もそれを見るものは無い
その異樣な姿を見ると、自ら涙が湧いて來る
その孤獨が自分の胸に觸れて來る。
[#地から1字上げ](一〇、三)

  自分は見た

自分は見た。
朝の美くしい巣鴨通りの雜沓の中で
都會から田舍へ歸る肥車が
三四臺續いて靜かに音も無く列り過ぎるのを
同じ姿勢、同じ歩調、同じ間隔をもつて
同じ方向に同じ目的に急ぐのを
自分がぴつたり立止つてその過ぎ行くのを見た時
同じ姿勢で、ぴつたりとまつたやうに見えた。
小さく、小さく、町の隅、此世の隅に形づけられて。
自分はそれから眼を離した時、
自分の側を過ぎ行く人、
左へ右へ急ぐ人が皆んな
同じ方則に支配されて居るのを感じた。
彼等は美くしく整然と一糸亂れ無い他界の者のやうに見えた。
人形のやうに見えた。

自分は見た
夜の更けた電車の中に
偶然乘り合はした人々が
おとなしく整然と相向つて並んで居た。
窓の外は眞暗で
電車の中は火の燃えるかと思ふ迄明るかつた。
自分は一つの目的、一つの正しい法則が
此世を支配して居るやうに思ふ
人は皆んな美くしく人形のやうに
他界の力で支配されて居るのだ。
狂ひは無いのだ。つくられたまゝの氣がする。
一つの目的、一つの正しい法則があるのだと思ふ。
自分はその力で働くのだ。

  葉書

今日はいゝ日だ。
朝、床の中でうと/\して居ると
郵便配達が
どつしりと重みの有る一束の葉書と手紙を投げ込んで行く
音に目を覺された。
自分は其處に五六枚のハガキが重さなり合つてちらばり、
一通の手紙とを見た。
自分は檻の中の獅子が投げ込まれた肉片に飛び付くやうに
勢ひよく手を伸してそれを掻き集めて胸の下に引寄せた。
久しぶりでKから自筆のハガキがあつた。
國へ歸つたNの二度目のハガキがあつた。
それからKからの編輯についてのハガキと、
夫から來月號に小説を出す通知を兼ねた返事があつた。
それからNのハガキと今月の雜誌に出た三つの小説があつた。
それが手紙に見えたのだ。
自分は一枚々々餓ゑるやうに讀み噛みしめた。
すつかり血が殖えたやうに。
自分は元氣づいて手紙を懷にねぢこんで立上つた。
窓からは好きな青空が誘ふやうに光つてゐた。
小供をつれて原つぱへ行かうと思つた。
そこでNの小説を讀まうと思つた。
顏を洗ひ乍らも幾度も幾度も自分はハガキを懷から出して眺めた。
妻や小供にも少し關つてやらうと思ひ乍ら
ハガキに氣をとられつゝ
自分はNの『哀れな少女』の初めの一頁を息を殺して讀んだ。
然うしてあとを樂しみにして
幾度も自分を待つて呼んでゐる食事にいそいだ。
ハガキと原稿は自分の懷と袂に本能的にしまはれた。
自分は元氣に
妻や子供に、原へ連れて行つてやると云つた。[#地から1字上げ](一〇、一四)

  飯

君は知つてゐるか
全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを
赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに
冷たい飯を頬張ると
餘りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し
眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか
うまいものを食ふ喜びを知つてゐるか、
全身で働いたあとで飯を食ふ喜び
自分は心から感謝する。[#地から1字上げ](一〇、二五)

  眠れぬ者の歌

夜もすがら眠る者は幸福だ。
夜と共に眠る者よ
その面白さうな健康な呼吸よ
沈默の聲よ
幾多の人が集ひ寄つて
さゞめき、喜ぶやうな賑やかさ
『おゝ汝は笑つて居る、何が可笑しいのか』

夜もすがら眠り得ぬ者は不幸だ
彼は病んで居る
他界の人のやうに
幸福に擽られて居る露骨な笑ひを聞き乍ら
涙の浮んだ眼を見開いて居る。

『止めよ、止めよ
其の病的な幸福を、露骨な笑ひを止めて呉れ』
不幸な人は呟けど
夜もすがら幸福は眠れる者を去らず
病める者の耳を離れず
氣がつけばます/\露骨に話し合ひ、囁き、笑ひ
誘ひ込む樣に夜は騷しく更けて行く。
[#地から1字上げ](一〇、九)

  白鳥の悲しみ

美しく晴れた日、
動物園の雜鳥の大きな金網の中へ
園丁が忍び入り、
白鳥の大きな白い玉子を二つ奪つて戸口から出ようとする時
氣がついた白鳥の母は細長い首を延して朱色の嘴で
園丁の黒い靴をねらつてついて行つた。
卑しい園丁は玉子を洋服のポケツトに入れて
どん/\行つてしまつた。
白鳥の母は玉子の置いてあつた木の堂へ默つて引返へし
それから入口に出て來て立止つて悲しい聲で鳴いた。
二三羽の白鳥がそれの側へ首を延ばして近寄り
彼女をとりまいて慰めた。
白鳥の母は悲しく大きな聲で二つ三つ泣いた。
大粒な涙がこぼれる樣に
滑らかな純白な張り切つた圓い胸は
内部から一杯に搖れ動き、
血が溢れ出はしまいかと思はれる程
動悸を打つて悶えるのが外からあり/\見えた。
啼かなくなつてもその胸は痙攣を起して居た。
その悲しみは深くその失望は長くつゞいた。

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