或る夕暮

夕暮、自分は本郷通りを歩いてゆく
無關心になつた自分の心は至る所に美を見る。至る所から美が響く
粗惡な電車も灯をつけて走つて行くのが
死んで居るものが生きかへつたやうに
思はぬ美を自分に見せる。
力が罩つて變化して見える。
こまやかに降りた靄の中に
向ふ側はすでにうす暗く
仕事がへりの大工がうしろ姿を見せて一團になつて
いそいで歸つて行く。
その中には師匠もある。兄貴も小僧もある。
彼等は自由になつた喜びに輕るさをもつて歩む。
横丁からは提灯をつけ無い俥が澤山出て來て左右に分れて行き
矢張り提燈をつけ無い自轉車が
あつちにもこつちにも破れた翅の鳥のやうに
一直線に飛んで行く
ふと見た自轉車にのつかつた若者の顏は
暮れ殘る反射の中に
いゝ心持に青白い顏を浮べて現はれて消え
往來は地球一面のやうに廣くなり
用のすんだ空になつた荷馬車が音も無く通る。
馬の先導に立つて歩く馬子は
暗くてよく見え無い靄の中でもう大分飮んで居る
わけの分ら無い獨言を云つて居る
哀れな馬は足元の危い主を心配するやうに
時々立ち止らされては首を垂れてついて行く
そのあとから馬の體に縛りつけられた車が安らかに輪を廻して行く。
とある菓子屋の前に配達車と一緒に積んだ藁の上には
十六七の子守兒が寒さうに
遠い星のやうに煙つて居眠つて居る。
脊の子も娘の肩の上に頬をのつけて居眠つて居る
店の中ではどこでも人が皆んな立上つて居る。
一日坐つて居た痺れを感じ乍ら變化を喜んで居る。
はたきを持つた者や爪立ちをして
瓦斯に火をつけて居る小僧が見える。
家族の者も店に出たり奧へ入つたりして居る。
赤門の中の大きな樹は忘られたやうに青空に暮れ殘つて、
變化を生じて高くなり
その上に金星が眼を光らし
その眞下に薄い星が御供のやうに現はれ
舖石の上には小さな灯を澤山ともして夜店を出してゐる親子がある。
父は店を孤鼠々々と飾り
十位の學生帽子の息子は道にしやがんで、
破鍋の中で火をおこして居る。
これ等の平凡なものも廣大無邊な面影に變化を生じる光景は
自分に日頃侮蔑して居た生を懷しいものに思はせ
此世から死んでゆく事は一番淋しい事だと思はせる
死んだ人達も生きかへりたいと思ふだらうと思はせる。

  五月の朝

朝は感謝の心に燃える
殊に五月
淺黄空に若い太陽は輝き
織る樣に人の通る道も
人氣無い徑も
どこ
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