夜で
空にはどんよりとした月と白い雲がじつと動かずに凍てついて居る、
苦るしい/\永遠の沈默がある。
萬物が同一の法則に漸つと歸つたやうな靜かさだ。
小供は苦るしさうに、壓し出されるやうな吐息をつく
それが靜かに空氣を動かす。
さうして幸福に夢見てゐるやうな安心を與へる。
然し夫と妻は矢張り默つて居る。
遠い遠い過去と未來を何も解らず夢見て
[#地から1字上げ](一九一六、一二月)

  貧しい母親

高い煉瓦の壁の中で
赤い着物を着てゐるのを見たら
乳は上つてしまつた。乳は上つてしまつた。
乳呑兒を抱へて、四歳位になる男の子を片手につれて
貧しい母親は誰にでも饒舌る。
師走の寒い電車の中で、何も彼も棄てゝしまつたやうな目付をして。
高い煉瓦の壁の中で
赤い着物を着てゐるのを見たら
私の乳は上つてしまつた。乳が上つてしまつた。
これぽつちか出やしない。
[#地から1字上げ](一九一六、一二)

  納豆賣

日の出前の町を
納豆賣の女は赤ん坊を脊中に縛りつけて
鳥の樣に歌つてゆく
すばらしい足の早さで
あつち、こつちで御用を聞いて
機嫌のいゝ、挨拶をして
町から町を縫つて
空氣を清めて行く
鳥のやうに早く、姿も見せず歌つてゆく
私はあの聲が好きだ。
あの姿が好きだ。
[#地から1字上げ](一九一六、一二)

  蘇生の思ひ

冬になるとよくこんな晩がある。
空が曇つて何となく悲しい壓迫を人が感じる
凡てのものが火が消えた樣にしづまり
遠く潮の引いたやうな空の感じがする。
自然が何か計畫をして居る爲めに遠くの方へ
そこへ力が皆んな行つてしまつたやうな氣がする
用も無いのに町へ出て見てもどこにも活氣が無い
家々は白く氣味の惡い氣の拔けた恰好をして居る。
どこか遠くの方で道路を工事する
大勢の人間の掛聲が聞えるそれにも力が無い
どうする事も出來ない寂寞を感じる。
家へ歸ると出し拔けに友達がたづねて來る。
何かもの足りなかつたのはこの友を待つて居たのだと思はせるやうに
然し一寸驚く。やつとわかる。
友も誰か來るのを待ちくたびれて出て來たと云ふ風だ。
淋しい泣きつくやうな氣難しい憂鬱な顏をして居る。
かゝる時の嬉しさ、蘇生した思ひがする
自分達は外の事を忘れてしまつた
打ちくつろいで熱心に文學を話す。心の中には火花の散る思ひ。
かくて友を送つて外へ出て見ると
天氣はすつかり變
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