入ってからも初の数十年はなお保たれて仮名でも書きわけられていたが、村上天皇の頃になると全く失われたようである。伊呂波歌以前に、伊呂波のように用いられた「あめつち」の頌文は四十八字より成り、伊呂波より「え」の一字が多く、「え」が二回あらわれているが、これは右のア行のエとヤ行のエとを代表するものと認められ、その四十八字は(一)に述べたような音変化を経て、まだ「え」の二音の別が存した平安朝初期の音韻を代表するものである(ただし、濁音はそのほかにあるが、清音の文字で兼ねさせたのであろう)。伊呂波歌はこの二音が一音に帰した後の音韻を代表するものである。さて、「え」の二音すなわちeとyeとが同音となって、どんな音になったか。普通常識的にe音になったと考えられているようであるが、必ずしもそうとはいえない。古代の国語では、母音一つで成立つ音が語頭以外に来ることは殆どないのであって、ただ「い」(i)と「う」(u)の場合に極めて少数の例外があるに過ぎない。「え」の二音のうちのeもまた語頭にのみ用いられた。これは、つまり古代国語では、一語中に、母音と母音とが直接に結合することをきらったのである。yeは語頭にも語頭以外にも用いられたのである故、eとyeとがすべての場合に同音に帰したとすれば、eよりもむしろyeになったとする方が自然である。何となれば、eになったとすれば、語頭以外のeはその前の音の終母音と直接に結合して、古代国語の発音上の習慣に合わないからである。しかし、またもとのeとyeとの区別が失われて、新たに語頭にはeを用い、語頭以外にはyeを用いるというきまりが出来たかも知れない。そんな場合にも、このeとyeとを同じ文字で書いたことは、東京語における語頭のガ行音と語頭以外の鼻音のガ行音とを文字に書きわけないのによっても理解することが出来る。かようなわけで、eとyeとがすべてeになったとする説は極めて疑わしい。
 (三) 次いで語頭以外の「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」の音が「わ」「ゐ」「う」「ゑ」「を」と混同するようになった。これは「は」等の音の初の子音Fが唇の合せ方が少なくなり同時に有声化してw音に近づき遂にこれと同音となったもので(「ふ」はwuとなったのであるが、wuの音はなかったためuになった)、かような傾向は既に奈良朝から少しずつ見え、平安朝初期においても「うるはし」(麗)の「
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