ういうことも、やはり音の上の区別であるということを示していると思われます。
 以上のようないろいろの点から見て、こういう風な区別、すなわち後世は同じ音になった仮名に古い時代において使い分けのあることは、仮名だけの区別ではなく、発音上に区別があったによるものと考えられます。
 そうしますと、今まで述べたように、奈良朝時代において万葉仮名が八十七類に区別せられているということは、つまり音として八十七の違った音を用いておった、それだけの音を言い分け、聴き分け、使い分けておったと言ってよいのであります。そうしてもう少し古くなれば八十八の音を区別しておった(すなわち『古事記』の言語はそういう状態であります)。それが、奈良朝には数が少なくなって八十七になり、平安朝に入ると、先ず「エ」以外の十二の仮名とこれに対する七つの濁音の仮名とに当る音が、それぞれ二つずつあったのが、それぞれ一つになってしまったのであります。そうすると前よりも十九だけ減じて六十八音になります。その中の濁音を除いて清音の仮名だけ取れば四十八になってしまいます。これが前に述べた「天地《あめつち》の詞《ことば》」によって代表せられている訳であります。その次には、エの音がア行のエとヤ行のエと分れていたのが混同して一つの音となった為、清音が四十七、濁音を加えれば六十七、それだけの音の区別がある。それの清音四十七が「いろは」によって代表せられるのであります。かような音の変化はいつ頃起ったかと申しますと、無論確かには解りませぬけれども、「エ」の二つの区別のなくなったのは徐々ではありましょうけれども、平安朝に入って百年くらい経てば大抵一緒になった。醍醐《だいご》天皇時代くらいには大抵混同したのではないかと思います。村上天皇の頃には完全に混同してしまっております。すなわち平安朝の初、百年くらいまでは「エ」が二つあって清音四十八で、「天地の詞」によって代表せられる時代であり、その後「エ」が一つになって、清音として四十七となり、伊呂波歌によって代表せられる時代になるのであります。それから平安朝の半過ぎからまた「いろは」の中で「イ」と「ヰ」が同音になり、「エ」と「ヱ」と、「オ」と「ヲ」とも同音になって、四十四だけの音が区別せられるということになります。その時分も濁音はまだ二十あったと思われますから、これを加えて六十四になります。これらは恐らく院政時代頃にはもう一緒になってしまったのではないかと思います。
 こうなると「いろは」に現れているだけの音に関しては、今日の状態と同じで、「いろは」の中で同じ発音のものが三つあることになります。それですからこの点においては今日と同じことになります。けれども現代の日本語は、音としては「いろは」にある音だけでは足りないのであって、「いろは」を色々に組合せて書いているのであります。「キ」と「ヤ」とを合せて「キャ」と書く拗音《ようおん》というようなものもあります。かような拗音は、恐らく漢語として古くから学んだものであろうと思われますから、奈良朝においても正式に漢文を読む時には多分拗音があったろうと思います。漢文というものは、今日における英語とかドイツ語と同様に、支那語の文でありますから、支那語を学んだ奈良朝時代においては無論拗音も発音しておったろうと思われます。また支那語では「ン」に当るような音があった。すなわち「n」とか「m」とか「ng」とかいう音が語の終にあらわれますが、こういうものも無論あったと思います。これは今日我々が外国語を学ぶ時には日本語にないような音も外国語として発音します。それと同じように、当時支那語を学んでいたのでありますから、漢文の読み方を学ぶ場合には支那音で発音しておったと思われます。現に大学寮に支那人が来ておったのでありますから、そういうことはあったと思います。かような外国語式の発音が、日本語の中に普通に用いられるようになったのはいつ頃からかというと、これは非常にむずかしい問題で容易に断言は出来ませぬけれども、まず普通の言語に現れるようになったのは多分平安朝になってからであったろうと思います。殊に純粋の国語の中に、撥《は》ねる音すなわち「ン」で表わす音とか、つまる音、すなわち促音《そくおん》、そういうものが現れるようになったのは、やはり平安朝以後――平安朝には既にあったと思いますが――平安朝以後のものであろうと考えております。昔の学者は平安朝においては撥音とか促音などがなかったように考えていた人もありますけれども、これは仮名でそういうものを書く方法が発達していなかったからでもありましょう。『土佐日記』に「ししこかほよかりき」とありまして、これは死んだ子が器量好しであったという意味であります。「ししこ」と書いてあるのは「死にし子」で、「し」は
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