三つだけ多くなって五十になっている。これらの仮名は、我々は仮名としては別なものとしては考えていないのでありますが、しかしそういうものも、ずっと古い時代においては何か区別せられていはしないかということを問題にして、古い時代における仮名、すなわち万葉仮名の用例をあつめて、「イ」(ワ行の「ヰ」でなく)に当るあらゆる万葉仮名がどういう語に用いられているかということを調べてみると、それらはいずれも区別なく同じように用いられていることがわかり、それから「ウ」も「ウ」に当るべき万葉仮名を用いてある語をずっと調べてみると、これらの仮名はどういう語においても皆同じように用いられて、区別がないことがわかったが、ただ「エ」に当る万葉仮名だけは二類にわかれて互いに区別せられているのであって、ア行の「エ」とヤ行の「エ」と違った文字が用いてあり、語によってどちらの゛の仮名を使うということがちゃんと定《き》まっているということが発見されたのであります。それが奥村栄実《おくむらてるざね》の『古言衣延弁《こげんええべん》』の研究であります。そうして、契沖の研究によって仮名の用法上区別があることが明らかになった「い」「え」「お」と「ゐ」「ゑ」「を」との別は、実際の発音上にあったア行音とワ行音の区別であって、「イ」「エ」「オ」音と「ウィ」「ウェ」「ウォ」音との別を表わすものであるということが本居宣長《もとおりのりなが》翁《おう》の時代に明らかになり、そうしてもう一つのエにあたる仮名の二類の区別も、ア行音とヤ行音との区別で、一方は母音のエであり一方は「イェ」音を表わすものであるということが明らかになったのであります。
 契沖阿闍梨や奥村栄実の研究によって右のようなことが判って来たのであります。その結果として、第一に、古代には現代にない「ウィ」「ウェ」「ウォ」および「イェ」というような音があったことが明らかになったのであります。第二に、古代の音を表わすには、普通の平仮名では不十分で、古代には、平仮名や片仮名では区別しきれない音の区別があったことが明らかになったのであります。
 ア行とワ行の「え」と「ゑ」、「い」と「ゐ」、「お」と「を」、これらは、古代には発音上区別があったのが今は同音になって、音の上では区別はないが、仮名では別のものとして区別せられている。ところがア行の「え」とヤ行の「え」の区別は、昔あった発音上の区別が失われたのみでなく、仮名としても区別なく、それを仮名で書きわけることも出来ないものである。昔のア行のエの音も、ヤ行のエの音も、同じように「え」の仮名で書いて、我々はそんな区別があろうとも考えない。その「え」が、古い時代においては立派に二つに分れて、互いに混ずることがなかったということが判ったのであります。
 この「え」の二種の別は、五十音図におけるア行のエとヤ行のエとの別に相当するものですが、それでは、五十音図において区別せられているようなあらゆる音の区別が皆古い時代にあったかというと、そうでもない、前に述べたように、ア行の「い」とヤ行の「い」およびア行の「う」とワ行の「う」の区別は昔もなかったのであります。昔の国学者には五十音図というものは非常に古いものであって、神代からあったものであるというようなことを考えておった人もあります。しかし五十の音を言い分けるということは、神代はどうだか知りませぬけれども、我々が普通溯ることが出来る時代――これはまあ実際においては大体|推古《すいこ》天皇までぐらいであろうと思います。それより以前は、その辺からずっと眺め渡すことが出来るかも知れませぬけれども、直接に知るということはむずかしいのであります――先ず推古天皇の頃まで溯っても、五十の音がことごとく別々に使われ言い分けられておったということはなかったと思うのであります。そうかといって「いろは」では少し足りない。すなわち「いろは」ならば四十七の区別でありますが、ア行の「え」と、ヤ行の「え」は区別があるのでありますから「天地《あめつち》の詞《ことば》」の四十八音ならばよいのであります。そういうような訳で、結局この伊呂波歌とか、あるいは天地の詞というものは、昔の人が区別して仮名を使っておった、その仮名の区別を代表するものでありますけれども、五十音図はすぐにはそれを代表しないものであるということが判るのであります。このア行の「エ」とヤ行の「エ」は後世の片仮名や平仮名では区別せられず、そんな仮名によっては判らなかったのを、その区別があることを見出した。これを見出したのはどうして見出したかというと、古い時代の万葉仮名について、「え」に当る色々の万葉仮名の一つ一つについて、この字はどういう場合に用いられているか、どういう語に用いられるかというようにして調べて行く。そうすると、或る
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