れと同じように「い」と「ゐ」、「お」と「を」は発音が違っておったとすれば、これを違った仮名で書き、決して混同することがなかったのは当り前のことであります。そのことは賀茂真淵《かものまぶち》の弟子の加藤美樹《かとううまき》の説として『古言梯《こげんてい》』の初めに出ております。また本居宣長《もとおりのりなが》翁《おう》もやはり『古事記伝』の初めの総論に「仮字《かな》の事」という条に、明らかに音の区別であったといっているのであります。それから富士谷成章《ふじたになりあきら》もやはりそう考えておったのでありまして、本居宣長の時代になりますと、古代には、後に至って失われた発音の区別があったのであって、仮名の使い分けはこの発音の区別によるものであるということが、立派に判って来たのであります。そうして本居宣長翁は、その実際の音を推定して「を」は「ウォ」(ローマ字で書けばwo)であり、「お」は純粋の母音の「オ」(すなわちo)であると言っておられます。これは正しい考えだと思います。ワ行の「ゐ」「ゑ」「を」は、「ウィ」「ウェ」「ウォ」(wi、we、wo)であったと考えられるのであり、それに対して、ア行の「い」「え」「お」は、イ、エ、オ(単純な母音)であったのです。
 かように、契沖阿闍梨の研究によって、「いろは」は四十七文字がすべて悉《ことごと》く違った音を代表していたということが解って来ました。前に言った通り、四十七文字の中、同じ音であるのが三つありました。それは今でこそ同じ音であるけれども、ずっと古い時代において違った音であったとすれば、仮名の違いがやはり音の違いを表わしておったものである。四十七の仮名は四十七の違った音を表わしておったものであるということが解って来たのであります。
 ところが五十音図によると、五十だけの違った音があり得べきはずであります。四十七まで区別があって、あと三つだけは同じ音であるのは不審である。これも、あるいは昔は何か違った音ではなかったかということが問題になります。それは、
[#ここから二字下げて表]
ア行ヤ行ワ行[#表終わり]
 かように、「い」「う」「え」の三つが重複している。五十音図では別々になっているが、仮名は同じことであります。仮名では書きわけられないが、五十音図で別々になっているということは、音として違ったものだということを示すものであります。それ故、それは、いつか古い時代にあった二つの違った音が、後に区別を失って一つになったのではないかという疑問が起るのであります。ところが「いろは歌」に仮名が四十七あって、それが一々別の音であったということが判ったのですが、平安朝のかなり古い時に「いろは歌」が行われる前に「いろは」のように用いられておった詞《ことば》があるのであります。それは「天地《あめつち》の詞《ことば》」であります。これが「いろは」が出来る前に「いろは」のような役をしておったものと考えられます。これはいつ頃からあったか判りませぬけれども、村上《むらかみ》天皇の頃には既に世間に行われておったということは明らかな証拠があります。その全文は次の通りです。
[#ここから「天地の詞」、二字下げ]あめつちほしそらやまかはみねたにくもきりむろこけひといぬうへすゑゆわさるおふせよえのえをなれゐて[#二字下げここまで]
 右のように、単語を集めたようなものでありますが、それがあらゆる違った音の仮名を取って並べたものと考えられるのでありますが、ただ不思議なことには、それが四十八字ありまして、「いろは」四十七文字よりは一つ多いのであります。何が多いかというと「えのえを」となっておって「え」が二つあります。このことも一つの問題を提供するものであります。「いろは」の場合には「やまこえて」の「え」と、「ゑひもせず」の「ゑ」と、我々が「エ」と発音するものが二つに分れている。「え」と「ゑ」は別の仮名だということは判りますけれども、「天地」には同じ「え」の仮名がもう一つあって「え」が二つある。それが五十音図によると、ア行の「え」とヤ行の「え」とあって、やはり同じ「え」が二つに分れている。それが一つの問題になったのであります。かように、五十音図に、発音ばかりでなく仮名も全く同じ「い」「う」「え」の三つがそれぞれ二箇所に分れて出ている。また「天地の詞」によると同じ「え」が二つ出ている。これらは何か発音の違いに基づくものではないかということが問題になったのであります。これについて調べたのが奥村栄実《おくむらてるざね》という人で、加州藩の家老の出であります。この人が『古言衣延弁《こげんええべん》』を作りました。これは文政十二年の序文でありますからその時に出来た書物であります。これも契沖と同じような方法でもって調べたのでありまして、古い書
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