ヌ朝またはそれ以前においては発音が違っておったのであろうと考えられますから、かような語源説は甚だ危険であります。もっとも、こういう語が出来たのは、ずっと古い時代でありましょうから、その時代の音は奈良朝頃とは違っていたかも知れませんから、どうしても「神《カミ》」と「上《カミ》」との間に関係を附けてはいけないということは少し言い過ぎかも知れませんが、我々が達することが出来る極めて古い時代の、奈良朝またはもう少し古い時代において、この二つの語が同じ音でなかったとすれば、その間に関係があるとすることはよほど考えなければならぬと思うのであります。
もう一つ最後に言っておきたいと思うのは、これまで述べたような後世には知られない仮名の遣《つか》い分けが古代にあったという事実からして、我々が古い時代の書物の著作年代をきめることが出来る場合があることです。『古事記』について、数年前偽書説が出て、これは平安朝初期に偽造したもので、決して元明《げんめい》天皇の時に作られたものでないという説が出ましたが『古事記』の仮名を見ますと、前に述べたように、奈良朝時代にあった十三の仮名における両類の仮名を正しく遣い分けてあるばかりでなく、『古事記』に限って、「モ」の仮名までも遣い分けてあります。そういう仮名の遣い分けは、後になればなるほど乱れて、奈良朝の末になると、その或るものはもう乱れていると考えられる位であり、平安朝になるとよほど混同しています。もし『古事記』が、平安朝になってから偽造されたものとすれば、これほど厳重に仮名を遣い分けることが出来るかどうか非常に疑わしいと言わなければなりません。そういう点からも偽書説は覆《くつがえ》すことが出来ると思います。また近年出て来た『歌経標式《かきょうひょうしき》』でありますが、奈良朝の末の光仁《こうにん》天皇の宝亀年間に藤原浜成《ふじわらのはまなり》が作ったという序があって、歌の種類とか歌の病《やまい》というようなことを書いたもので、そんな時代にこんな書物が果して出来たかどうか疑問になるのであります。しかし、その中に歌が万葉仮名で書いてあります。その仮名の遣い方を見ますと、オ段の仮名の或ものは乱れているようでありますけれども、大抵は正しく使いわけてあって、ちょうど、奈良朝の末のものとして差支ないと認められます。そういう点から、この書は偽書でなかろうということが出来るのであります。
それから前に申しました通り、平安朝に入るとこういう特別の仮名の遣い分けは乱れて来たのでありますが、平安朝の初の暫《しばら》くの間はまだ多少混乱してはおりますが形の上においては大分保たれている。それから段々年代が降《くだ》るに従って混乱がひどくなって、実際の発音としては全然区別が出来なかったろうと思う位になっております。実際に発音が乱れるのは先であって、仮名の方は多少保守的のものでありますから、発音は乱れても仮名で書く場合には区別が遺《のこ》っていることが多いのであります。平安朝の初の内は、発音としてはなくなってしまったでしょうが、仮名の上には相当区別が見えるのであります。それで祝詞《のりと》のことです。これは『延喜式《えんぎしき》』に載っておりますが、その仮名を調べてみると、かの特別の仮名の遣いわけが相当正しいのであります。幾らか乱れたものもありますが、それは少数で、到底|延喜《えんぎ》時代に書かれたものとは思われませぬ。ところが『延喜式』というものは、御承知の通り、もと『貞観式《じょうがんしき》』というものがあってそれに改修を加えたもので、『貞観式』はまた『弘仁式《こうにんしき》』に基づいて出来たものであります。その『弘仁式』は、嵯峨《さが》天皇の弘仁年間に出来たもので、今は亡びてしまいましたけれども、幸にその目録だけが遺《のこ》っております。それを見ますと、その中に祝詞があったことがわかります。『貞観式』には祝詞はなかったのですから、『延喜式』を作る時に、『弘仁式』にあった祝詞をその中に収めたのではないかと思います。その万葉仮名において、かの特別の仮名の遣い分けが相当によく保たれているのは、平安朝の初、『弘仁式』を作る時に書いたものを、そのまま『延喜式』の中に入れたためではないかと考えております。
先ずこれでもって私の講義を終ります。忙しいため十分|纏《まと》める暇もありませぬし、時間も足りなくて急いだものですから、不徹底な所があったろうと思います。これで終ることに致します。
(大尾)[#この「(大尾)」は行の最下部におく]
[#ここから著者注、二字下げ小文字]
講演速記であるため、読んでは意味の通じない所が多く、かなり手を加えたが、十分の暇を得なかったので、まだ不満足な所が少なくない。用字法や送仮名なども、大概もとのままにした
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