を合せたものに一致し、その二類の区別は普通の仮名の区別には一致しないのであります。かようにして普通の仮名で書き分けられないような区別が上古の万葉仮名に発見せられたのであります。つまり仮名の用法の研究から、こういう結論が出て来た訳であります。これはちょうど契沖阿闍梨が古書における仮名の用法を調査して、昔はア行の「イ」「エ」「オ」と、ワ行の「ヰ」「ヱ」「ヲ」と区別があったということを明らかにしたのと全く同じ手続であります。ただ違う所は、契沖阿闍梨のは「イ」と「ヰ」、「エ」と「ヱ」、「オ」と「ヲ」は発音は同じであっても、仮名としてはもとより違ったものとせられていましたから、同様に発音する「伊」とか「以」とか「異」とか「移」とか「為」とか「委」とか「韋」とか「謂」とかなどの万葉仮名が二つの類に分れて混用しないことを見出しても、その各類を代表させるにちょうど都合のよい「イ」と「ヰ」の仮名があったために、その区別を普通の仮名で示すことが出来たのであります。ところが龍麿が見出した十三の仮名における二類の区別は、万葉仮名だけにおける区別であって、これを普通の仮名で代表させ、仮名の違いによって示すことは出来ないので、その点で少し様子が違っているのであります。違いはただそれだけであります。平仮名・片仮名における区別が万葉仮名における区別と合わないというだけのことで、我々が同音に発音している仮名を昔の人が区別して用いているということを明らかにしたことは、龍麿も契沖と同じであります。同音の仮名の使いわけということが仮名遣の問題であるとするならば、契沖と同じく、龍麿の研究も仮名遣の研究であるといってよい訳であります。龍麿がその書に『仮名遣恷R路』と名を附けたのは、これを仮名遣の問題として考えたものと思われますが、これは正しいと言ってよいと思います。
かように、龍麿の研究は、古典における仮名の用法の研究の上から、同じ仮名だと思われていたものの中に区別があって混用しないということを見出したのであり、契沖の研究も古典の仮名の用法の研究から、同音に発音する仮名の間に区別があるということを発見したのでありますから、どちらも同じ性質のものでありますが、龍麿の見出した仮名の使いわけは、それまでは全然問題になっていなかったに対して、契沖が古典の中から見出したような同音の仮名の使いわけということは、ずっと以
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