れからはなおさら困難な道を取って、島内深くまだまだ入らなくてはならなかった。
 基隆の町で弟は汽車の玩具がほしいと言い出して聞かなかった。父と母とは雨のしょぼしょぼ降る町を負ぶって大基隆迄も探しに行ったが見当らず、遂に或店の棚の隅に、ほこりまみれになって売れずに只一つ残っている汽車のおもちゃを、負っている弟がめばしこく見つけ、それでやっと[#「やっと」に傍点]機嫌を直した事を覚えている。
 基隆から再び船にのって、澎湖島を経て台南へ上陸したのであるが、澎湖島から台南迄の海路は有名の風の悪いところで此間を幾度となく引返し遂々澎湖島に十日以上滞在してしまった。澎湖島では毎日上陸して千人塚を見物し名物の西瓜を買って船へ帰ったりした。漸くの思いで台中港へ着き、河を遡って台南の税関へついた。そこで始めて日本人の税関長からあたたかい歓迎をうけ西洋料理の御馳走をうけたりパイナップルを食べたりした。心配した弟の体も却って旅馴れたせいか変った様子もなく頗る元気であった。
 台南から目的地の嘉義県庁迄はまだ陸路を取って大分這入らねばならなかった。困難はそこからいよいよ始まった。汽車は勿論なし土匪は至るところに蜂起しつつあった物騒な時代で、沢山な荷物とかよわい女子供許りを連れて愈々危地へ入って行く父の苦心は如何許りで有ったろうか。私たちは土人の駕籠に乗せられて、五里ゆき三里行き村のあるところに行っては泊り朝早く出て陽のある中に城下へ辿りつくという風に様々な危ない旅をしたのであった。ある時には青田の続いた中をトロ[#「トロ」に傍点]で走り、或時は一里も二里も水のない石許りのかわいた磧《かわら》を追っかけられる様に急ぎ、又時には強い色の芥子畑や、わたの様な花の咲く村を土人の子供に囃されつつ過ぎた事もあり、行っても行っても、今の様な磧の(或場所の石を積み上げてあるところなどは土匪でも隠れてはしないかと危ぶみ怖れつつ)果てに雲の峰が尽きず村も三里も五里もない様な処もあった。或時には豪雨で橋の落ちた河へ行きあわせた事もあった。両岸には奔流を空しく眺めている日本人や土人が沢山いた。郵便夫もいた。父は裸になって河をあっちこち泳いで深さを極め、私共は一人一人駕籠かきの土人に負さって矢の様に早い河を渡してもらう事もあった。奔流に足を取られまいとして、底の石を探り探り歩む土人の足が危うく辷りかけてヒヤリ[#「ヒヤリ」に傍点]とした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のままの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に侘びしく寝た夜もあった。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一処になったので夜も昼も軍隊と前後して、割合危険少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であった。
 やれやれと思うまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどっと寝付いて終ったのである。日本人といっても数える程しかなくやっと[#「やっと」に傍点]県庁所在地というのみで上級の官吏では家族を連れているのは私共一家のみという有様だったので、私共は県庁の内の家に這入り病弟は母が付添って市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、領台当時野戦病院にしてあったのを当り前の病院に使っているので軍医上り許りであったし外には医師も病院もなかった。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲弾の痕もあり、くずれたところもあり、病室と言っても、只の土間に粗末な土人の竹の寝台をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寝ている幾つもの室を通って一番奥の室が弟の特別室であった。隣室には中年増の淪落の女らしいのが青い顔をして一人寝ていた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くずれかけた様な高い煉瓦塀には蔓草が這いまわり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落していた。院長などは非常に一生懸命尽して下さった。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寝台を母はいたましがった。弟は台南で食べた西洋料理を思い出してしきりにほしがった。馴れぬ七月中ばの熱帯国の事故、只々氷をほしがった。枕元の金盥には重湯《おもゆ》とソップを水にひやしてあったが水は何度取り替えてもじきなまぬる湯の様になる。信光は母のすすめる重湯を嫌って
 みずう、みずう
と冷たいもの許りほしがった。この離れ島へ遠く死にに連れて来た様に思われる病人の為め出来る丈の事をしてやり度いと思っても金の山を積んでもここでは仕方がなかった。父は台南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に沢山注文した。知事さんのコックに頼んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悦んだらしいけど、「信《のぶ》やお上り?」と聞いた母に、只うん[#「うん」に傍点]と二三度うなずいた丈けで、力ない目にじっ[#「じっ」に傍点]と洋食の皿をみつめたまま、
 あとで。と
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