梟啼く
杉田久女
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)信光《のぶみつ》という
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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私には信光《のぶみつ》というたった一人の弟があった。鹿児島の平の馬場で生れた此弟が四つの年(その時は大垣にいた)の御月見の際女中が誤って三階のてすり[#「てすり」に傍点]から落し前額に四針も縫う様な大怪我をさせた上、かよわい体を大地に叩き付けた為め心臓を打ったのが原因でとうとう病身になってしまった。弟の全身には夏も冬も蚤の喰った痕の様な紫色のブチブチが出来、癇癪が非常に強くなって泣く度に歯の間から薄い水の様な血がにじみ出た。私達の髪をむしった。だけども其他の時にはほんとに聡明な優し味をもった誰にでも愛され易い好い子であった。五人の兄妹の一番すそ[#「すそ」に傍点]ではあったし厳格な父も信光だけは非常に愛していた。家中の者も皆此の病身ないじらしい弟をよく愛しいたわってやった。弟は私が一番好きであった。病気が非常に悪い時でも私が学校から帰るのを待ちかねていて「お久《しゃ》しゃんお久《しゃ》しゃん」と嬉しがって、其日学校で習って来た唱歌や本のお咄を聞くのを何より楽しみにしていた。鳳仙花をちぎって指を染めたり、芭蕉の花のあまい汁をすったりする事も大概弟と一処であった。
父が特命で琉球から又更に遠い、新領土に行かなければならなくなったのは明治三十年の五月末であったろうと思う。最初台湾行の命令が来た時、この病身な弟を長途の船や不便な旅路に苦しませる事の危険を父母共に案じ母は居残る事に九分九厘迄きめたのであったが信光の主治医が「御気の毒だけど坊ちゃんの御病気は内地にいらしても半年とは保つまい。万一の場合御両親共お揃いになっていらした方が」との言葉に動かされたのと、一つには父は脳病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行ってもし突然の事でも起ってはと云う母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲って父の為めに新開島へ渡る事に決心したのであった。小中学校さえもない土地へ行くのである為め長兄は鹿児島の造士館へ、次兄は今迄通り沖縄の中学へ残して出立する事になった。勿論新領土行きの為め父の官職や物質上の待遇は大変よくなったわけで、大勢の男女子をかかえて一家を支えて行く上からは父母の行くべき道は苦しくともこの道を執らなくてはならなかったに違いない。私の母は非常にしっかり[#「しっかり」に傍点]した行届いた婦人であったが、母たる悲しみと妻たる務めとの為めに千々に心を砕きつつあった。その苦痛は今尚お私をして記憶せしめる程深刻な苦しみであったのである。
八重山丸とか云う汽船に父母、姉、私、病弟、この五人が乗り込んで沖縄を発つ日は、この島特有の湿気と霧との多い曇り日であった。南へ下る私共の船と、鹿児島へ去る長兄を乗せた船とは殆ど同時刻に出帆すべく灰色の波に太い煤煙を吐いていた。次兄はたった[#「たった」に傍点]孤りぼっち此島に居残るのである。
送られる人、送る人、骨肉三ヶ所にちりぢり[#「ちりぢり」に傍点]ばらばらになるのである。二人の兄の為めには此日が実に病弟を見る最後の日であった。新領土と言えば人喰い鬼が横行している様におもわれている頃だったので、見送りに来た多数の人々も皆しんから[#「しんから」に傍点]別れを惜しんでくださった。船が碇を巻き上げ、小舟の次兄の姿が次第次第に小さく成って行く時、幼い私や弟は泣き出した……
真夜中船が八重山沖を過ぎる頃は弟の病状も険悪になって来た。その上船火事が起って大騒ぎだった。大洋上に出た船、而かも真夜中の闇《くら》い潮の中で船火事などの起った場合の心細さ絶望的な悲しみは到底筆につくしがたい。
ジャンジャンなる警鐘の中にいて、病弟をしっかり抱いた母はすこしも取り乱した様もなく、色を失った姉と私とを膝下にまねきよせて、一心に神仏を祷っているらしかった。
が幸いに火事は或る一室の天井やベッドを焦したのみで大事に至らず、病弟の容体も折合って、三昼夜半の後には新領土の一角へついたのである。淋しい山に取かこまれた港は基隆《キールン》名物の濛雨におおわれて淡く、陸地にこがれて来た私達の眼前に展開され、支那のジャンクは竜頭を統べて八重山丸の舷側へ漕いで来た。
今から二十何年前のキールンの町々は誠に淋しいじめじめした灰色の町であった。とうとうこんな遠い、離れ島に来てしまったと云う心地の中に、三昼夜半の恐ろしい大洋を乗りすてて、やっと目的の島へ辿り着いたという不安ながらも一種の喜びにみたされて上陸した私達は只子供心にも珍らしい許りであったが、こ
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