「ヒヤリ」に傍点]とした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のままの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に侘びしく寝た夜もあった。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一処になったので夜も昼も軍隊と前後して、割合危険少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であった。
やれやれと思うまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどっと寝付いて終ったのである。日本人といっても数える程しかなくやっと[#「やっと」に傍点]県庁所在地というのみで上級の官吏では家族を連れているのは私共一家のみという有様だったので、私共は県庁の内の家に這入り病弟は母が付添って市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、領台当時野戦病院にしてあったのを当り前の病院に使っているので軍医上り許りであったし外には医師も病院もなかった。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲弾の痕もあり、くずれたところもあり、病室と言っても、只の土間に粗末な土人の竹の寝台をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寝ている幾つもの室を通って一番奥の室が弟の特別室であった。隣室には中年増の淪落の女らしいのが青い顔をして一人寝ていた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くずれかけた様な高い煉瓦塀には蔓草が這いまわり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落していた。院長などは非常に一生懸命尽して下さった。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寝台を母はいたましがった。弟は台南で食べた西洋料理を思い出してしきりにほしがった。馴れぬ七月中ばの熱帯国の事故、只々氷をほしがった。枕元の金盥には重湯《おもゆ》とソップを水にひやしてあったが水は何度取り替えてもじきなまぬる湯の様になる。信光は母のすすめる重湯を嫌って
みずう、みずう
と冷たいもの許りほしがった。この離れ島へ遠く死にに連れて来た様に思われる病人の為め出来る丈の事をしてやり度いと思っても金の山を積んでもここでは仕方がなかった。父は台南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に沢山注文した。知事さんのコックに頼んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悦んだらしいけど、「信《のぶ》やお上り?」と聞いた母に、只うん[#「うん」に傍点]と二三度うなずいた丈けで、力ない目にじっ[#「じっ」に傍点]と洋食の皿をみつめたまま、
あとで。と
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