にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。
 母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄|月蟾《げっせん》が十数年前、平の馬場の其家をたずねて見たところ今は教会に成っていて家も門もそっくり其儘残っていたのであまりの懐しさに兄は其庭には入って朱欒や柿の木の下に佇んで幹をさすったり仰いだり去りがたく覚えたという事を私に語ってきかせたことがあった。
 一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国|出石《いずし》の産なので、こじつけの様ではあるが、私が南国にうまれ、其後又琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺
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