朱欒の花のさく頃
杉田久女

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平《ヒラ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|冠木門《かぶきもん》だけが

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)びろど[#「ろど」に「(ママ)」の注記]
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 私が生れた鹿児島の平《ヒラ》の馬場の屋敷というのは、明治十年鹿児島にわたって十七年間も住っていた父母が、自ら設計して建てた家なので、九年母《くねんぼ》や朱欒《ザボン》、枇杷、柿など色々植えてあったと母からよく聞かされていた。
 城山の見える其家で長兄をのぞく私達兄弟五人は皆生れたのであるが、無心の子供心には、あさ夕眺めた城山も、桜島の噴煙も、西郷どんも、朱欒の花のこぼれ敷く庭の記憶もなく只|冠木門《かぶきもん》だけがうっすら頭にのこっている。
 年若な官員様であった父は、母と幼い長子とを神戸に残して一足先に鹿児島へ赴任すると間もなくあの西南戦争で命からがら燃えつつある鹿児島を脱出して、桜島に逃げ民家の床下にかくれて芋粥をもらったり、山中に避難している中官軍の勝になったので、県の書類丈を身にしょっていたのをもって碇泊中の軍艦に辿りつき漸く命びろいしたと云う。
 母達も其翌春かにはるばる鹿児島に上陸した時は、只まっ暗な焼野原で一軒の宿屋もなく漁師の家に一と晩とめて貰ったが言葉はわからず怖ろしかった相である。だが十七年もすみついてすべてに豊富な桃源の様なさつまで私の兄姉達は皆鹿児島風にそだてあげられた。私は長姉の死後三年目に生れたので父母が大変喜んで、旧藩主久光公の久の一字にちなみ長寿する様にと命名されたものだとか。三四歳迄しか住まない其家の事も只母からきくのみで四十年来一度も遊んだ事はないが、兄|月蟾《げっせん》が十数年前、平の馬場の其家をたずねて見たところ今は教会に成っていて家も門もそっくり其儘残っていたのであまりの懐しさに兄は其庭には入って朱欒や柿の木の下に佇んで幹をさすったり仰いだり去りがたく覚えたという事を私に語ってきかせたことがあった。
 一体私の父は松本人。母はあの時じくの香ぐの木の実を常世の国から携え帰った田道間守の、但馬の国|出石《いずし》の産なので、こじつけの様ではあるが、私が南国にうまれ、其後又琉球、台湾と次第に南へ南へ渡って絶えず朱欒や蜜柑の香気に刺激されつつ成長した事も面白くおもわれる。
 台北の官舎では芭蕉や仏桑花、蘭など沢山植えてあったが、私のまっ先に思い出すのは父が一番大切にしていた一株の仏手柑である。指をもつらした様な面白い形の仏手柑はもいで籠に盛られて父の紫檀の机の上や、彫刻した支那の大テーブルの上に青磁の花瓶などと共にかざられていた。
 仏手柑は香気が高くて雅致のあるものだった。
 台湾では文旦という形の尖ったうちむらさきや普通の丸いざぼんや、ぽんかん、すいかん(ネーブル)等を籠に入れて毎日の様土人が売りにきた。
 ぽんかんの出盛りの頃になると百も二百も買って石油鑵に入れておいては食べ放題たべた。お芋だのお菓子の嫌いだった私は、非常に果物ずきで、蜜柑畠には入って、枝のぽんかんをもいでは食べ食べした事や、唐黍をかじり、香りの高い鳳梨をむいたり、びろど[#「ろど」に「(ママ)」の注記]の様な朱欒の皮をむきすてて平らげたり、八九段もついているバナナの房を軒に吊しておく楽しみなど、すべて香気のつよいしたたる様な熱帯地方の果物のうまさを思い出すと今でもよだれが出る様で、実際よくもあんなにたべられたものと思うくらい。お正月など、お雑煮も御飯もたべず私は顔の色がきいろくなるほど蜜柑ばかりよくたべたものである。又朱欒や仏手柑を思い出すと、私達の帯や布団や袴にまでザザクサによく使用された支那ドンスの緋や空色、樺桃色などの幅広い反物が色どりよくつみ上げられていた土人の呉服店の事や、まつりかの花をほしまぜたウーロン茶のむしろや、小さい刺繍靴などを断片的に思い起すのである。
 其頃母からおちご[#「おちご」に傍点]という牛若丸のような髷にいつも結ってもらって友禅の被布をきておとぎ文庫の因幡の白兎や、松山鏡を読みふけり乍ら盆の蜜柑をしきりに飽食する少女だった私は、南国というものによほど縁があると見え、嫁して二十五年余り、小倉の町にすみ馴れて年毎に柑橘の花をめでるのである。
 静かな屋敷町の塀の上から、或は富野辺の大きなわら屋根の門口から、まっ白い膚橘の花が匂ってきたり、まっ白に散りしいたりしているのは中々感じのいいものである。朱欒の花は夏橙や柚の花よりずっと大きくて花数もすくないが、膚橘の方はもみつけた様に花を咲きこぼす。もといた堺町の家の簷《のき》にも一本夏みかんの木があって年々花をつけては塀外へこぼれるのを毎朝起きて掃
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